2023年12月 アーカイブ

2023年12月30日 0時20分21秒 (Sat)

キリスト教の教え 2  八木雄二

キリスト教の教え(2)

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東京キリスト教神学研究所 所長八木雄二


5.イエスの処刑

 キリスト・イエスを教師として人生の真理を学ぶ道が、イエス自身が示したキリスト教信仰の根幹だと、わたしは考えます。なぜなら、人は人生の真理を学ぶことができたとき、それを教えてくれた師を、神のように敬愛するものだからです。ですから、イエスが残したことばから人生の真理を学ぶことができたとき、人はイエスを「神のごとき」人であると考えます。これは自然なことです。その真理は、学校で教えられることや親に教えられることとは異なり、地上に生まれたわたしたちに「まことの命」をあらためて与えてくれるものです。「自分が生きる真理」を本当に自分に教えてくれたものが居れば、その人を「神のごとき人」と思うことは、だれにとってもごく自然なことです。それは論語を教えた孔子も、仏教を教えた釈尊も同じです。
 わたしたちは地上に生まれて来たとき、体の命と心の命を与えられていますが、体の命はその生き方を体自身が十分に持っていて、あらためて教えられることは少ないと言えます。せいぜい周囲にあるもののなかで何が食べられるか、何が危険か、などのほかは、生きて行くうえであらためて学ぶ必要のあることはないでしょう。ところが心の命のほうは、社会のなかで育つ間に、周囲で善悪さまざまなことばを聴くことになります。それらが行き交って、何が正しいことか迷うばかりとなることは、当然、起こることです。大人になって正しく生きようとすれば、心の生き方、すなわち、何をどのように考えることが正しいことか、また善いことかを、人はだれでも、むしろ特別に学ばなければなりません。
 このとき、それを教えてくれる人は、わたしたちの心にとって、「神のごとき人」でなくてなんでしょう。なぜなら、生き方に思い迷うわたしたちは、体は生きていても、すでに心は迷路に迷い込み、どこかで行き詰まり、その先はないところ、死ぬ寸前に至っているのです。そのわたしたちに「自分のいのちが正しく生きる道」を示してくれた人が居るとすれば、その人はわたしたちを心の迷路から救い出し、自由な外に連れ出し、わたしたちの心に「本当のいのちを与える」ことが出来た人だと言えます。その教えはわたしたちにとって「神聖なもの」であり、わたしたちにとってまさに「大いなる命の泉」です。
 ところが、それを弟子たちに教えたイエスは捕縛され、ユダヤ教会によってローマ帝国の地区管轄政庁に上告され、帝国支配に反抗する思想指導者と見なされ、十字架に掛けられて弟子たちの目の前で殺されました。イエスを神と慕っていた人たちは、彼の十字架上の死を見て心が混乱したに違いありません。「神聖な命」をもった者が「死ぬ」という事実を、おそらく弟子たちは冷静に受け止めることができなかったことでしょう。じっさい十字架刑となったイエスは鞭打たれ、かなり重い十字架を背に担がされて処刑場までの道のりを歩かされました。しばらくは引きずって歩けても、途中で動けなくなり、近くにいた別の人間が代わりに十字架を運んだと言われています。言うまでもなくローマ兵の監視のもとです。
 そして処刑場に着くと、倒された十字架の上に体を載せられ、手首と足を、太い釘で十字架に打ち付けられたのです。激しい痛みが襲ったに違いありません。現代の都会生活を平穏に送る人なら、とても見ていられない残虐な光景です。もちろん時代状況は現代の日本とは異なります。人々にとって見慣れた光景には違いがあります。ですからその時の弟子の気持ちがどのようであったか、それについては何とも言えません。かつて見事な歌を詠んでいた後醍醐天皇が、政敵の生首を自分で検分したというのですから、どんな残虐な光景でも、人間は「見慣れる」ことができるのかもしれません。イエスを慕っていた人たちも、わたしたちよりは、そのような光景を何度か以前に経験していたことでしょう。
 とはいえ、イエスを慕っていた人たちは、やはり奇跡が起こることを願ってその場に居たに違いありません。しかし奇跡は起こらず、その時が来てしまいました。何もできない無念さのなかで目を覆い、釘が打ち付けられる音に耳を塞ぎたくなったに違いありません。イエスは十字架に手足を打ち付けられ、ローマ兵に命じられた処刑場の人は、何人かでそれを起こしてあらかじめ作られた穴に、その軸の棒を差し込みました。そうやって十字架に掛けられた血まみれの罪人を刑場の丘の上に高く掲げたのです。それが彼らの仕事であり、彼らはそれをたんたんと実行したのです。
 それは当時のローマ帝国から見れば「ユダヤ人の王を名乗ってローマに抵抗するものはこうなるぞ」という脅しでした。降りたくても釘で打ち付けられて降りることのできない状態で、イエスはエルサレムの空に「血まみれの高札」としてさらされたのです。イエスは時間をかけて、苦悩のうちに衰弱して死にました。しっかりと死を確認するために、最後にローマ兵は下からイエスの脇腹に槍を差し込んだと言われています。
 言うまでもなく、イエスが弟子たちに「教えたもの」は、「心の命の泉となることば」でした。それは物ではないし、体でもありません。それは「死ぬ」とか「消滅する」ものではありません。それが無くなるとすれば、その教えが人々から忘れ去られるときだけです。
 しかし、イエスを「神のごとき人」として慕った人たちは、あまりにむごいイエスの死を間近にして心が痛み、混乱して、その区別ができませんでした。その亡骸を葬り、「神のごとき人が自分たちの周りから居なくなった」悲しみに打ちひしがれたのです。
 しばしの時間が流れました。時間は人の悲しみを和らげます。次第に落ち着くことができるようになった弟子たちの間で、イエスは「復活」したことになりました。生き返ってほしいと願っていた人たちの間で、その噂は急速に広がったでしょう。冷静に「教え」と、イエスという「人間の生死」を区別できた人も、あるいは居たかもしれませんが、イエスを慕い、愛するがゆえにその区別をできなかった人の声が、人々の心を最後には占めたのです。人々の間に「復活のうわさ」が起こり、広がりました。そのうわさに取り囲まれて、人々はそれをすっかり信じるようになりました。エルサレムの近隣にはエジプトがあり、エジプトでは人々は復活するときが来ることを信じて遺体のミイラづくりをしていました。当時、「復活」の思想は人々の身近にあったのです。
 そして復活が信じられるようになれば、イエスが「神である」ことを信じることは容易なことでした。神なら、復活できるに違いないからです。そして復活した後、弟子たちに見守られながらイエスは天に帰ったことになりました。そのように考えることでイエスを失った弟子たちは、今は、イエスが自分たちの前に居ないことを、ようやく納得することができたのです。キリスト教が教えよりもイエスの行動に目を見張り、奇跡に心を奪われる人の宗教である性格が、このようにして生まれたのです。その結果、キリスト教は人間の身体性に深い関心をもつ宗教になりました。
 「ヨハネによる福音書」11章にはこんな話があります。ラザロという人物が病気で死ぬのですが、家族の懇願を聴いたイエスが彼をよみがえらせる奇跡を起こした話です。それはイエスの死を前にして泣き叫び、打ちひしがれ、その後に、彼の復活を信じることに依って互いをなぐさめた人々の心情が伝えられています。実際ラザロの話はキリスト教徒の間では有名な聖書の物語であり、ドストエフスキーも彼の小説『罪と罰』の中で登場人物に取り上げさせています。

6.パウロのキリスト

 しかし、信者の間で三日後に復活したことになったことで、信者の心は安堵し、神でありながら自分たちの周りから居なくなったことに信者が納得できたとしても、イエスが十字架上でいったんは死んだ事実は残ります。イエスの死を間近に見ていなかった人々から、「神の死」についての疑問が出されるようになりました。神が死ぬなど、ありえるのかと。
この事実について、特殊な説明をしたのがパウロでした。パウロはイエスの生前を見ていなかったし、十字架上の死も見ていませんでした。その点で他の弟子たちとは違っていました。パウロはしかし、イエスを神の如き人と慕う弟子たちの真摯な姿に心を動かされ、キリスト教徒を迫害する者であることをやめ、むしろ信者を支え、指導する側に寝返りました。そしておそらく、イエスの行動と発言の一部と、教えの一部を弟子たちから聞いたのでしょう。彼の心はそれを聴いてやはり感動しました。しかしパウロはイエスを直接には知りません。弟子たちほどイエスを身近に感じることはできませんでした。そのために、パウロは復活を信じることだけでキリスト教徒の仲間になることができませんでした。
 彼は、イエスの行動、発言に感動していましたが、一方、イエスの弟子たちとは異なってイエスの生前を知らず、十字架上の悲惨な死を見ませんでした。彼はイエスを直接には知らないたくさんの人たちと、同じ世界に居たのです。彼は生前のイエスを知っていた信者の仲間になるために十字架上の死の意味を考えるほかありませんでした。できるだけ自分が耳にしたイエスの教えに沿うように、イエスの十字架上の死を説明しようとしました。復活に納得して信者になれなかった彼は、十字架上の死の意味を納得できるものにすることで、真実にキリスト教徒になろうとしたのです。
 彼は、「人はみな罪を犯し、神の栄光を受けられなくなっていますが、キリスト・イエスのあがないの業を通して、神の恵みにより無償で正しい者とされるのです。」(ロマ3−23・4)と主張しました。
 おそらく、これを聴いた信者たちは、何のことかと思ったでしょう。彼らにとっては、イエスが神の如き人であることは、直接の経験で知っていたし、そのうえイエスが復活したことで十分だったからです。パウロの説明は余計なことと思えたでしょう。しかしその説明は、イエスを知らない人たちへの伝道においては必要な説明となりました。なぜ神が苦悩の内に死んだのか。それが説明されれば、その神が人の体を復活させたとしても不思議ではない。そして本来の居場所である天に帰ったことも、不思議な話ではない。まさにこのような理由から、イエスの十字架上の死の意味が説明される必要があったのです。
 しかしパウロの説明は、イエスの教えに沿ったものだったと言えるでしょうか。

 

2023年12月21日 1時34分30秒 (Thu)

1月31日(水)神学研究会のお知らせ

第116回 神学研究会
    2024年1
月31日

< 道元『正法眼蔵』をよむ 6 >

前回は、「いのち」についての講義でした。

「いのち」には、「生きること」だけでなく「死ぬこと」もまた「いのち」と、八木所長はいいます。


講師:八木雄二(東京キリスト教神学研究所所長)

1月31日(水)18:30−20:30

(開場18:00) 

参加費 500円(各回ごと、資料代として)

主催 東京キリスト教神学研究所

目黒区 田道住区センター三田分室

所在地: 〒153-0062 東京都目黒区三田2丁目10−33

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主催 東京キリスト教神学研究所

申込はこちから→http://theology.hp-ez.com/page6

参照 http://www.catholic-setagaya.jp/

 

八木雄二所長の新刊著書『キリスト教を哲学するー隠されたイエスの救いー』、ぜひお買い求めください。
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八木雄二所長の著書『1人称単数の哲学』


『「神」と「わたし」の哲学』

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2月27日、読売新聞に掲載された森本あんり先生による書評です。

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2023年12月19日 0時34分14秒 (Tue)

キリスト教の教え 1  八木雄二

 

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東京キリスト教神学研究所 所長八木雄二

 

キリストの教え 1

1.はじめに

 キリスト教について、長く学んできました。いろいろな信者のかたにも接してきました。聖書も完全ではありませんが、それでも折々に読んで来ました。何度かはキリスト教会の司祭職のかたの話も聞いたことがあります。最も長くはカトリックの中世期のキリスト教神学の本を読んで来ました。しかし、同時にソクラテスやプラトン、アリストテレスやセネカの哲学にも触れて来ました。その結果、私自身はキリスト教信者として教会に認められる立場ではありませんが、イエスの教えの本当のところは、こんなことではないのだろうかと、ほかで言われていることとは少し違うことを考えるようになりました。
わたしの説明は半信半疑で聴いてもらえればと思います。教会の学者や司祭職の人から聞いていることとは違うこともあるでしょう。それでもいくらかは、これからみなさんにお話しすることのどこかに、真実味があると思ってもらえて、この話がキリスト教についてあなた自身があらためて考えるよすがとなるなら、喜ばしいかぎりです。
じっさい、わかりやすいだけのキリスト教の説明なら、これから出てくる学習機能をもった生成A I が作る文章のほうが、ずっといい説明をしてくれるでしょう。人類の多くは、自分たちの怠惰に目をつぶり、機械の便利さとその機械をつくった技術を誇るようになって久しいのです。二百年前に始まった「近代」とは、そういう時代の始まりです。少し前までは、それは物体的なものに限られていました。それが精神的なことがらに及んできているのです。「危険」が指摘されています。怠惰であることに慣れた現代人は、ことばで考えることも機械任せにすることに抵抗感はなくなっています。ひとたび生成A Iに「政府見解に沿うように」文章をすべて作るようにプログラムを潜ませれば、国民は政府見解に従った思考しかもたなくなるのは目に見えています。
この危険を回避するためには、生成A Iには、「わからない文章を作る」ようにプログラムを作るしかないでしょう。そうすれば、人々はこぞって「なぞ解き」に専念して、自分たちの思考力を取り戻すことができるようになるでしょう。禅仏教の「公案」など、そのよい例です。
わたしがこれから示す説明は、人間にだけ許されるべき「わかりやすい説明」の生成です。なぜ人間にだけ許されるべきだと言うことができるのは、それは、人間が怠惰であってはできないことだからです。機械任せにしない。しかしそれだけその仕事には誤りの可能性が出てきます。人間がやることですから。そしてそれだけ、その説明を聴く人は、自分でも考えて、騙されないように、その説明を吟味しなければなりません。読者には、その面倒を厭わないことが大事です。
 わたしがさまざまなことを考える日々のうちに、このような文章をあえて書く気になったのは、聖書が書かれた時代がはるかむかしのことになって、現代人にはその内容がそれだけ分からないものになっているのではないかと、考えるようになったからです。
たとえば江戸時代の末、日本を訪れた西欧人は、町の往来で母親が赤ん坊を懸命にあやし、父親が子供を肩車して嬉々としているのを見ていました。そして「子供がこんなに大切にされている国は見たことがない」と驚いていたのです。また明治初期に日本にやって来て日本人になった小泉八雲は自分が目にしたことを綴っています。あるとき警官につかまった泥棒が何もしていないとしらを切っていたところ、たまたまそこに居た母親の背中におんぶされた赤ん坊の姿を見せられ、警官に「この子を見てもしらを切れるか」と問われ、その泥棒の顔色が次第に変わり、ついには泣き崩れて自白したのです。赤ん坊は「聖人」のように見られていたから、泥棒も赤子の前ではどうしても嘘がつけなかったのです。
今でも七五三の祝いが熱心に行われていますが、それも子供がまだ幼い内に亡くなることがむかしはきわめて多かったからです。医学技術が進んで、今では子供が死ぬことも珍しいことになりました。背景となる感覚がすっかり変わっています。
そのせいか分かりませんが、その同じ国が、現代では国連の「子供の権利条約」になかなか参加しようとしていなかったという事実があります。百年の間に、「子供」についての認識が大きく変わってきているのです。だからイエスの時代には「その言葉でわかった」ことが、今では「わからない」ことになっていても、不思議ではありません。
女性の権利についても同様です。武力という暴力が国の力となるにつれて、男性優位の社会が作られていった結果、女性の権利は社会のなかで貶められて来ました。人類誕生の初めから、ということではないのです。ところが無意識のうちに、ほんの短い現代という時代の常識で聖書が読まれているように見受けられます。中にはキリスト教会の説明とは違った読み方を披露する人もいますが、一部で違った見方をしても、首尾一貫した理解にはなっていないことが大半です。実際には現代の常識で読むことが原因で、聖書のことばが現代人には不可解なものになっているのだと思います。
 哲学の作業を通じて様々に考えをめぐらしてきた結果、イエスの教えの背景にある何か、あるいは、基礎にある何かが、わたしの目に見えて来ました。全部とは言いませんが、案外大事なところが見えて来たと思います。それを現代人にも「わかる」ことばにすることは、そろそろこの世ともお別れを考えなければならない年を迎えたわたしの務めでもあるかと思い、この文章を書くことにしました。

2.キリストの教えを学ぶために必要なこと

 まず先にこれからの話がわかるための前提になるところから話していきたいと思います。その前提とは、イエスの話がわかるために必要なことです。
イエスは一人ひとりの「心の中のこと」について話しています。目に見える金銭や他人の行為や、身体的なことについて話しているのではありません。聖書に、イエスが病気を治した話があっても、よく読めばわかりますが、彼は病気の治し方を教えていません。イエスは病気を治しても、イエスは病気を治す方法を教えていたのではありません。つまり病気の治癒は、イエス・キリストの教えではないのです。たんに「神の権能」を示しただけです。これはちょうど、人が高価な装身具で自分の社会的地位を示すことと同じです。その人は装身具を作る技術をもっていません。それを教えて、それができる人を作ることはできないのです。イエスも、治療法を教えて、死んだ人をよみがえらせることが出来る人間を作ることはできませんでした。
イエスの話を民衆が聞く気になるように、イエスが病気を持つ人に対して特別な力を持っているところを見せただけです。しかし病気を治しても、医者が尊敬される意味で人は尊敬を勝ち得ることができるだけです。それを見て、自分も同じような医者になろうとする人は出て来たかもしれません。しかしおのれの生き方を変えるような話をイエスから我先に聞こうとする人が、その奇跡を見た人から出て来たというようすは、聖書にはありません。イエスが起こしたというこの種の奇跡は、イエスが民衆に聞いてもらおうとした肝心の「教え」を、民衆に聞いてもらう方法としては、まったく失敗しているのです。
 繰り返しますが、キリストの教えは「心の中のこと」についての「教え」です。自分の心の中を見ることが出来なければキリストの教えを学ぶことはできません。だれでも経験しているように、他人の心の中は、見ることができません。見ることができるのは、自分の心の中だけです。心の中としては、それしか人は見ることができません。つまり人は自分の心の中のことによってのみ、イエスが教えようとした「心の中のこと」を経験できるのです。
ところが、中には、心の外に在って目に見えるもの、手でつかめるものしか信用できないと、そればかりを追う人がいます。しかし自分の心の中を見ることができないと、「心の中の教え」であるキリストの教えは、学ぶことができません。なぜなら人は見たことも聞いたこともないことについては、言われても何のことかわからず、学ぶことができないからです。
たしかに、自分の心を見直しても、心の内にあるものはどれも「空っぽ」で、追求すべき「実体」と見えるもの、確かなものとして信じられるものは見受けられないように思えます。これもまた現代人にとっては常識になっています。心の内にある思い出も、映像を残さなければ、あるいは、それをたくさんの人に見てもらわなければ「事実」として感じられなくなっていて、その結果、各自が目の前のものを次々と撮影して交流サイトに揚げています。たくさんの人からの反応が得られないと、自分が現に経験していることさえ、事実として信じられなくなっているのです。さらに虚構の世界に慣らされて一部の人は見ず知らずの人が作ったフェイク・ニュース、作られた画像に心を占められ、踊らされてしまっています。踊らされていることで、不安を忘れ、そのときが生きがいにすらなっています。これが現代なのです。
しかしこの状態でイエス・キリストの「教え」を学ぶことはできません。自分の心の内に、ある種の「真実」を嗅ぎ分ける力が残っていないと、あるいは、ふだんから地道にその力を養っていないと、イエスの「教え」は、聞いても聞いても、わけがわからないものになります。その力は、自分の心の内にしかないものです。
あらかじめその力について、あえてつぎのように申しておきましょう。「これは確かに正しい」と思える何かが自分の心の中に見つかるに違いないと、「あなた」が自分を信じることができるかどうかです。できなければ、おそらく、あなたにはイエス・キリストの「教え」を学ぶことはできません。繰り返しますが、あなたが、自分がまったく信頼できず、心の外に居る他者を信頼するほかなくなってしまっているのなら、もはやあなた自身がイエス・キリストから学んで「自身を改める」(新しくする)ことはできません。
すでに述べたように、イエスの教えは、心のうちの出来事です。イエスの話を聞いて、自分が心の内で経験して来たことを思い起こせなければ、イエスの話はあなたにとって訳の分からない話に過ぎません。なぜなら、人はつねに自分の経験をベースにして人の話を理解するからです。自分の心のうちに「確かな経験」があって、それによって自分の心がイエスの話を理解しようと、意欲できなければなりません。自分の心に確かな経験がなければ、それをベースにした理解はもてません。イエスの話を聞いても、自分の心のうちに、話の中身に一致する自分の心の経験がなければ、イエスの話は理解できないものです。
心のうちにそうした経験がなければ、じつはすべてが他人頼みになって、イエスの話を聞いても、「あなた自身の生き方」が、つまり「あなたらしい生き方」が、あなたにはできなくなってしまいます。何をしても空しいことになるでしょう。逆に言えば、もしもイエスの話を聞いて、自分の経験をベースに理解できるものがあるとすれば、あなたには「自分らしい生き方」ができる希望がもてます。なぜならイエスの話は、キリストであるイエスが、「自分らしい生き方」がそれにもとづいてできた心の内の話だからです。じっさい、イエスの話は、イエス自身をキリスト(神の子)にした「教え」です。それを学ぶことができる心は、イエスと同じように、自分自身をキリストの真実に近づけることができる心だと言えるのです。その希望が、たしかにあると言えるのです。

3.キリスト教信仰とは

 キリスト教は、「神であり人であるイエス・キリストが唯一の救い主であると信ずることによって救われる」宗教だと言われます。
 しかし、カギカッコで言われていることをお題目のように唱えていれば救われる、ということではありません。少なくとも、聖書か、聖書の内容を知っている人から「神であり人であるイエス・キリスト」が「どういう存在か」、「どういう人か」、「どういうことを言っていたか」ということを、いろいろと教えてもらわなければ、定義があってもそれは空をつかむようなことになります。また、それを教えてもらって、「あなたが、イエス・キリストという名に『神のような人』を心にイメージできる」のでなければ、やはりあなたは救われません。つまりイエス・キリストの名に関していろいろと教えてもらう内容が、「あなたの心」に深く響かなければ、キリスト教を信ずる条件が整いません。
さらに、ことのほか気を付けなければならないことは、つぎのことです。「ほかの人がキリスト教を信じているかどうかは、自分がキリスト教を信ずるかどうかを決めるものではありません」。他人頼みで何事も決めている人は、だれか周りの人が信じているかどうかで、「自分も」信じようとするかどうかを決めるでしょう。しかし、それはキリスト教を信じることではなく、周囲のだれかを信じることです。神を信じているのではなく、神を信じていると当人が言っている、その人の言説を信じているに過ぎません。その人は神の如く誠実な人なのでしょうか、それとも時々は噓をついて逃げている人でしょうか。繰り返しますが、他人の心の中はだれも見通すことはできません。キリスト教が神を信じるように勧めるのは、人間は究極的に「弱いもの」だからです。真実を前にしても、自分の死や痛みを恐れて逃げ出してしまうものだからです。他人頼みという他人信仰は、結局、自分の命をかけて信じることに値しないのです。
ですから、最初に揚げたキリスト教の定義の最後にある「救われる」の主語は、「あなたが」であって、「人間一般が」ということではありません。たとえ神から「あなた」と呼びかけられる人の数が地上の人間の九割に達したとしても、「他人事」に聞こえる「人間一般」がキリスト教によって救われると理解するなら、それは救済宗教の定義としては誤りです。なぜなら、救済宗教が救うのは具体的な個々人であって、人間一般ではないし、個々人を救うのも、個々人が現に生きている現実の「今」の時点においてだからです。
「今」の時点で自分が救われたと言える実感があるのなら、その後の「今」においてもキリスト教は「わたしの今」を救い続けることができると考える(信じる)ことが出来ます。なぜなら、「今のわたし」をキリスト教が救っていると知られるのなら、つぎの「今」も同じように救ってもらえると、考えることができるからです。それは自分がこの世から居なくなるまで続きます。ですからキリスト教には永遠の救いができると、信じられているのです。

4.イエス・キリストを信じること

 イエス・キリストを信じることは、イエスを神と信じることです。そしてそのためには、すでに述べたように、イエスが述べていたことを聴いて、自分がイエスの内に「神」を、イメージできるのでなければなりません。したがって、結局のところ、肝心なことは、イエスを、イエスが神であることをイメージできるようなことがらを教える教師として受け止める必要があります。そしてそのためには、じっさいにイエスの教えを学んでみて、そのように自分の心が動かされることを実感しなければなりません。
ですから「信じる」ためには、あらたに「学ぶ」必要があるのです。そしてあらたに学ぶためには、イエスが述べたことを、あなた自身が「わかる」、「納得できる」ことが必要です。
 何の学びもなしに信仰があるというのは虚構です。キリスト教信仰をもつためには、その聖書に伝えられたイエスの「教え」を、「あなたが」学んでみなければ始まらないのです。


 


2023年12月7日 0時20分13秒 (Thu)

2023年12月20日 (水)神学研究会のお知らせ

2023年12月20日 (水)

第115回 神学研究会
    2023年12
月20日

< 道元『正法眼蔵』をよむ 5 >

キリスト教神学と仏教の哲学の共通点が見事に重なって見えました。
非常に興味深い内容になっています。
ぜひお気軽にご参加下さい。
年末のため、今回は第3水曜日になっています。


講師:八木雄二(東京キリスト教神学研究所所長)

12月20日(水)18:30−20:30第3水曜日

(開場18:00) 

参加費 500円(各回ごと、資料代として)

主催 東京キリスト教神学研究所

目黒区 田道住区センター三田分室

所在地: 〒153-0062 東京都目黒区三田2丁目10−33

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主催 東京キリスト教神学研究所

申込はこちから→http://theology.hp-ez.com/page6

参照 http://www.catholic-setagaya.jp/

 

八木雄二所長の新刊著書『キリスト教を哲学するー隠されたイエスの救いー』、ぜひお買い求めください。
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八木雄二所長の著書『1人称単数の哲学』


『「神」と「わたし」の哲学』

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2月27日、読売新聞に掲載された森本あんり先生による書評です。

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「キリスト教の教え」 八木雄二

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