2024年2月 アーカイブ
2024年2月27日 15時06分06秒 (Tue)
3月20日(水)神学研究会のお知らせ
第118回 神学研究会
2024年3月20日(水)
< キリスト教の教え マタイの福音書 2 >
マタイの福音書のよりキリスト教をキリスト教たらしめているモノの本質は何かを探ります。
古代中世キリスト教神学に蓄積されたキリスト教の遺産より、現代の諸問題と重ねて学ぶことになります。
講師:八木雄二(東京キリスト教神学研究所所長)
3月20日(水)18:30−20:30 第3水曜日
(開場18:00)
参加費 500円(各回ごと、資料代として)
主催 東京キリスト教神学研究所
会場は、いつもの田道住区センター三田分室になります。
所在地: 〒153-0062 東京都目黒区三田2丁目10−33

主催 東京キリスト教神学研究所
申込はこちから→http://theology.hp-ez.com/page6
参照 http://www.catholic-setagaya.jp/
八木雄二所長の新刊著書『キリスト教を哲学するー隠されたイエスの救いー』、ぜひお買い求めください。

八木雄二所長の著書『1人称単数の哲学』
2月27日、読売新聞に掲載された森本あんり先生による書評です。



2024年2月14日 3時04分07秒 (Wed)
キリストの教え 9
キリストの教え 9

18.イエスの教えの探求へ
イエスが話したことをパウロの信仰と混同しないように探求するためには、イエスが育った時代と環境について見ておく必要があります。というのも人間は、自分が育った環境の中で言語を身に付け、いろいろなことを知って育つからです。イエスは、エルサレムの市内に育った人ではありません。またその近くで育った人でもありません。むしろエルサレムからは遠いナザレという小村に生まれました。そこはユダヤの一部とはいえ、ギリシア語圏に近縁の土地でした。「ガリラヤ」と呼ばれ、まさに預言者イザヤによって「異邦人の土地」と呼ばれていたところだと、マタイ福音書(4‐15)にも紹介されています。
したがって、イエスは当時一般民衆の使っていたアラム語で育った人でしたが、おそらく当時そのあたりで使われていたコイネーと言われるギリシア語を子供のころから耳にして、解していたに違いありません。そしてギリシア語圏は、イエスが生まれる四〇〇年前に亡くなったソクラテスの哲学が、すでに知れ渡っていました。じっさいソクラテスの弟子が起こしたキュニコス学派の哲学者が、ナザレから遠くないところで活動していたと言われています。
イエスの言動から見て、彼がイスラエルの人間であることにこだわりがあった可能性はあります。イエスは「わたしは、イスラエルの家の迷える羊のところにだけ、遣わされているのだ」(マタイ15-24)と言っているからです。しかし、知的な関心の向かうところは、ユダヤ教圏内に限らなかったに違いありません。イエスが若い頃にギリシア的な知恵に接して深い思索をもったことは、十分にありうることだと思われます。
地方出身のイエスの生活は、当初から素朴なものだったことは、おそらく確かなことです。そしてソクラテスも、「奴隷でも逃げ出す」と人に言われるほど貧乏な生活を平気でしていた人でした。年中裸足、年中同じ服装、ふろにも入らない生活をしていながら、ソクラテスの話は、つねに敬意をもって多くの人に聞かれていました。ですから田舎暮らしのイエスが当時伝えられていたソクラテスの会話を、相当な興味をもって聞いたことは十分にありうることです。
自分と同じような貧相な生活のなかで真理を探究して七〇歳まで生きたソクラテスの会話に、若いイエスが興味をもたないはずがありません。イエスはヨハネの噂を聞く前に、まずソクラテスの哲学に接していたと思われるのです。
たとえば、ソクラテスと言えば「無知の自覚」の教えが頭に浮かびますが、その具体的内容は、「善美なことについて、私は知らないから、その通りに、知らないと思う」だと、彼は弁明の場で言っています(21d)。イエスも、善いことについて或る青年に尋ねられたとき、「なぜ、善いことについてわたしに尋ねるのか。善いかたは神一人だけである」と答えています(マルコ10‐12、ルカ19)。つまりイエスも「善いことは、わたしは知らない」と言っているのです。善いことについてのこのような話は、旧約聖書には、関連していそうな箇所はありません。洗礼者ヨハネの教えにも含まれていません。イエスの話は、よく旧約時代の預言の成就として解釈されますが、「善い事を知らない」については、それでは解釈できないのです。やはりイエスはソクラテスの会話からも多くを学んでいると考えたほうが、自然に納得できるのです。
イエスは、ヨハネが捕まって殺されたことを聞いて逃げたと、すでに述べました。逃げた先は「ガリラヤ」でした。そこに「しばらくとどまった」と言われています。ギリシア語が話されていたところにしばらく居たことで、イエスは自分が若い頃、伝えられたソクラテスの会話に夢中になっていたことを思い出し、再度、ヨハネの教えと合わせて、神の教えの内容を十分に吟味したのはないでしょうか。きっとそうであるに違いありません。ソクラテスは、当時ソフィストと呼ばれた学者教師たちとは異なり、だれにでも分かる話し方をしたと言われています。むずかしい専門用語を使わなかったのです。ですからイエスも、だれもが分かることばで神の教えを説明できるように、「ソクラテスにならって」ことばを探したに違いありません。彼が後に弟子に語った数々のたとえ話は、そうしてできたものなのではないでしょうか。
じっさい、イエスの弟子が、あるときイエスに尋ねたと、福音書にあります。「なぜたとえ話であの人たちにお話しになるのですか」(マタイ13-10)。福音書は、そのあとにイザヤの預言を紹介しています。「あなたがたは聞くには聞くが、まったく悟らない。見るには見るが、まったく認めない。この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、目は閉じてしまっている」(同書13-14‐5)。福音書はイエスの誕生を旧約時代の預言の成就として説明しようとしているので、「だれにも分かるように」という答えをイエスがしたことにはしていません。とはいえ、イエスが説明し難いことを、なんとか分かりやすいことばで説明しようとしたことは、弟子たちの質問から察せられます。
ところで、「ソクラテスにならう」とは、哲学の道を取ることです。『弁明』(28e-29a)によれば、ソクラテスも、デルポイの神託を「哲学した」(ことばを吟味した)ことによって、神が自分をその後の活動(自他の知の吟味)に招聘したのだと、理解しました。すなわち、「ソクラテスより知恵のある者は居ない」という巫女を通じた神託を、自分が神に奉仕するように、という「神の導き」、あるいは、「神からの命令」だと、ソクラテスは哲学を通してはじめて理解したのです。もっとも知恵があると、ソクラテスは巫女を通じて、神から褒められました。彼がその知恵(哲学)を大いに社会の中で発揮することが、自分が神から受けた使命だと考えるのは、ごく自然なことでしょう。
ですからイエスの教えの根本に迫るために哲学の道を取ることは、ソクラテスのことを考えれば、不当なことではないのです。
19.「心の貧しいものは幸いである」
哲学の道をたどってイエスの教えを見出すことにしましょう。
「心の貧しいものは幸いである」は、イエスが行った「山上の垂訓」と銘打たれた箇条書きになった教えの最初の一句です(マタイ5-3)。「天の国はその人に属しているのだから」ということばがすぐ後に続いています。
後続のことばは、「心の貧しい」その人が「幸いである」ことの理由を述べています。次のような推論です。「真の幸福があるところは、天の国であるから、幸福な人は、幸福であるかぎりで天の国に居る、ところで、心の貧しい人は幸福な人である、ゆえに、心の貧しい人は天の国に居る」。つまり天の国は、居心地のいいところであるとか、きれいなものに囲まれたところだとか、宝物がたくさんあってお金に困らないところだとか、何かそういう目に見える国だということではありません。じっさいイエスは、天の国がどんなところか、何も言っていません。天の国では何が見えるか、何が聞こえるか、何が匂うか、そういう感覚的なことには左右されずに、たんに「幸福である」ことが、「天の国に居る」ことだと、イエスは述べているのです。
したがって、イエスは、たとえ不快なものが見えても、不快な音が聞こえても、あるいは、不快なにおいにさらされても、そういうことには無関係に、「真に幸福な人は、天の国に居る」と言っているのです。
他方、ルカ福音書では「心の」に当たることばがありません。「心の」は、ギリシア語では「プネウマにおいて」となっています。プネウマは「気息」、「霊」という目に見えない心のはたらきを指しています。しかし前述のように、幸福であることは明らかに「心の」状態です。それは幸福な人が居ると言う天の国が、五感でとらえられる天国のイメージではないことから明らかです。ですから、「心の」は、むしろ「幸いである」ことが起きている「心」という場所を述べています。そう見れば、納得がいくことばになります。したがって、「心の貧しいものは幸いである」ということばの意味は、「貧しいものは、その心が幸福である」と理解すればよいはずです。そう考えれば、分かることばになります。
問題は、「貧しいもの」が、どんな人を指しているかです。なぜ「貧しいもの」は、「貧しいがゆえに心が幸福である」ことができるのか。これが分からなければ、やはり一句全体の意味は理解できません。じっさい、通常は、貧しい人というのは、お金に余裕がない人を言います。しかしそうだとしたら、その人はお金に「困っている」のですから、「ゆえに心が幸福である」というのは、矛盾しています。
しかしわたしたちは、イエスが金銭に関連して「皇帝のものは皇帝に返せ」と教えていたことを知っています。そしてその意味は、社会の分業体制から「離れる」ことが、神のもとに帰るために必要だと教えているのを、すでに見出しています。じっさい、それこそが「神のものは神に返せ」という教えだと、わたしたちは理解しました。ところで分業体制は、その間を金銭が流れることによって成り立つ体制です。分業のなかで一つの仕事の生産物を、他の人がしている仕事の生産物と交換することを可能にするために金銭が流れています。どのような生産をする仕事を担当しているかに依って、金銭の受け渡しの量は違います。その違いが競争を生み、市場経済を活性化し、分業体制を成り立たせています。そこから、いつのまにか金持ちと貧乏人の階級が、生まれてきます。
イエスが言う「貧しいもの」とは、はたしてこの体制のなかで生まれている金銭の量に関する貧乏人のことでしょうか。しかし、金銭に関連してわたしたちが見出したイエスの教えは、この体制から離れなければ神のもとに帰れないという教えでした。そして天の国とは、神のもとにある国です。したがって、幸福な人は、この体制から離れた人でなければなりません。ところで、金銭が流れている体制から離れれば、そこには「金銭は無い」のですから、そこに居る人間は、やはり金銭が欠乏している意味で、貧しい状態です。金銭が存在しないところでは、お金持ちはありえません。
たとえばソクラテスは、この意味での「貧乏人」でした。彼は、クセノポンの『思い出』に出ているようすからすると、毎日無料で人々の人生相談に乗っていたようです。相談を持ち掛けられたソクラテスは、持ちかけられた内容によって、自分の人生経験にもとづいて、また、きわめて厳格にことばを吟味する作業を通して、相手に最善の道を示しました。そして彼自身は、それによってたしかに「幸福」であったし、なおかつ、他者を「幸福」にしたと言っています(36d)。
では、心が幸福な状態にあるとは、どういう状態でしょうか。これまでのイエスの言い方で言えば、「神のもの」である自分の生死を、自分の意のままにしようとする状態をやめて、それを神にまかせている心の状態です。生きるか死ぬかについては自分が心配し、配慮することではないと納得し、すっかりあきらめて、安心している状態です。
では、積極的には何も考えず、何もしないでいることが、幸福なことでしょうか。イエスは、天の国に生きることを思い、正しいことをすることを考え、正しいことを実行する生活が、心が幸福な生活であると言います。野の鳥のように、生きて行けるかどうかは心配せず、ただ正しいことを実行する生活を求めなさいと、イエスは言っています。
「空の鳥を見なさい。種をまくことも刈り入れることもせず、また蔵に収めることもしない。それなのに天の父はこれを養ってくださる。・・・あなたがたのうち、だれが思い煩ったからといって寿命を一刻でも延ばすことができるだろうか。・・・。まず天の国と、その義を行う生活を求めなさい。・・・明日のことは、明日思い煩えばいい」(マタイ6-26、27、33、34)
同じところで、「天の国の住人ではないものたち(異邦人)は、何を食べ、何を飲もうか、何を着ようかと思い煩い、それを切に求めている」と言われています(マタイ6-31‐2)。分業体制の社会の中で生きるために、わたしたちは、食べ物、飲み物、着るものを求めます。それらを得るために、はたらきます。イエスは、その生活はわたしたちが天の国の住人ではない、つまり神を信ずる民ではない証拠だと言っているのです。わたしたちが生きるのは、わたしたちが「いのち」を分け持っているからですが、その「いのち」は、神がわたしたちに貸し与えているものであり、いぜんとして「神のもの」だというわけです。決して「すでにわたしがもらったものだから、もうそれはわたしたちのもの」ということではないと、言うのです。
わたしたちが現に生きている分業体制の社会では、他者からもらったものは、つねに自分のものです。分業体制は、必要に応じて所有権を移すことができることによって成り立つ体制だからです。その中に居れば、「もらったもの」が「自分のものではない」というのは、理解できないことがらになります。しかしイエスは、それは間違いだと言うのです。
そして先に揚げた引用文からも分かるように、このことは空を飛ぶ鳥たちと一緒だと言います。別の箇所(マタイ6‐28)を見れば、「野のユリ」も同じです。「野のユリがどのように育つかをよく見なさい。骨折ることも、紡ぐこともしない」と言っています。ですから、イエスに依れば、わたしたちの「いのち」は、周囲に見られる動物や植物の「いのち」と同じく、初めから最後まで、まったく「神のもの」なのです。神にまかせておけば、育ち、生きていくものなのです。「自分のもの」だと思っても、自由に、思い通りに、寿命を延ばすことができることはありません。
言うまでもなく、分業体制の人々の間には、病気を治す医者も病人の看護者も、生きることを楽しませてくれる歌手や噺家も居ます。その生活は、もらったいのちを「自分の所有」と見て、自分のものとして思い煩い、あるいは、ときに楽しみを与えてくれるエンターテナーを得て、快楽のままに、生きることができる生活です。少なくとも、元気でいる限り、その気でいられます。自分の命は、金銭の力で自分の思いのままになっているような気がします。しかし、イエスに依れば、それは現実ではないのです。少なくとも、それが現実ではないことは、寿命を思いのままにできないことで明らかだと言います。
2024年2月14日 2時52分51秒 (Wed)
キリストの教え 8
キリストの教え 8

16.哲学の道による理解
わたしたちはパウロの説得に従うべきでしょうか。わたしは、かならずしもみなが、ではないと思います。それはキリスト教会に入るか入らないかの違いでもあります。言うまでもなく、おのれの愚かしさを自覚して教会に入る道を選ぶのも、反対に、その道を選ぶことにむしろ不安や不満を懐いてしまい、納得がいくまで自分で考える道を選ぶのも、人間の自由です。だれもがこの自由をもっています。他者の自由を、だれもが尊重しなければ、互いの自由は守られません。これは人権を尊重することであり、また信教に関して保証された自由です。
哲学の道は、ことばを吟味する道です。この道をたどると、すでに述べたように、パウロの説く物語、彼が持ち出す信ずべき事実には、飛躍があり、その物語は突飛であることが明らかです。それを明らかにする道、ことばを吟味する道は、じっくりとことばの論理をたどる道です。たとえて言えば、ほかに車も人も全く見えない遠くまで舗装された道を、しっかりと制限速度を守り、同時に左右に目を配りながら車を運転するようなものです。見方によっては、これも愚かしい進み方です。だれにも迷惑を掛けない、車の制御能力も十分なら、スピードを出して目的地に着くほうが車を利用する意味があるではないか、と考えるのがふつうです。警察の監視も何もないにもかかわらず、それでもルールを守って道を行くことは、はたから見れば、たしかに愚かしい運転です。しかし、この姿勢でことばを吟味すると、パウロの言うことは、ことばの正しい道のりをたどっていないのです。
わたしは、これから哲学の道をたどります。この道を着実にたどってイエスの教えを理解することは、その教えを本当の意味で尊ぶことになると、信じるからです。
17.「悔い改め」の意味
イエスが、当時預言者の噂が絶えなかったヨハネから受け取った教えは、「悔い改め」(メタノイア)でした。「メタノイア」というギリシア語の意味自体は、「あとで気付く」、「あとで考える」という程度の意味しか持ちませんが、聖書では「悔い改め」と訳されます。しかしこのように訳されることには正当な理由があります。
「マタイ福音書」(3-2)で上の語が出ている文面のすぐあとに、同じことを「自分の数々の罪を自ら認める、自ら告白する」(3-6)ということばがあるからです。つまりこれが「悔やむ」ことの内容です。そしてそのあとに、さらに、「それにふさわしい実を結べ」(3-8 )と言っています。つまり悔やんだら、その結果も示せ、と言うのです。結果を示すというのが訳文の「改める」ということばに凝縮されています。
ですから、「メタノイア」は、「あとで気付く」よりも、「悔い改め」と訳されたほうがたしかにふさわしいのです。
さらにヨハネは、悔いの結果として「我々の父はアブラハムだと、心の中で思ってはならない」と言っています(3‐9)。すなわち、悔いの結果は「心の中の思い」に出ると言っているのです。ということは、何が「悔い」の結果改まるかと言えば、明らかに「心の中の思い」です。その思いは言動となってさらに体外の表に出るものですが、直接的にはあくまでも人の目につかない「心の中」にあるもの、「心の動き」です。ふだんは隠されています。見せてもいいと思える人にだけ、見せるし、聞かせてもいいと思える人にだけ、口にする内容です。つまり悔いの結果は心の内に現れなければならないのですが、ただ、それは他者の目にも耳にも触れることはありません。つまりヨハネが「自分はアブラハムの子孫だと思ってはならない」と言っても、ヨハネの前で悔いて見せた人間が、本当にそういうことを心の内で思わないかどうか、それは、結局、当人にしか分かりません。
それはともかく、悔いた結果、その心に思う内容が「正しい」ものになっていなければなりません。「我々の父はアブラハムだという思いは、悔い改めたなら、もってはならない」と、ヨハネは言っているわけです。「それは悔い改めたらもつはずの正しい思い」ではないから「もってはならない」と、彼は言うのです。アブラハムという人物は、神の声を聴いてユダヤ民族をメソポタミアの町から連れ出した最初の族長です。そのアブラハムを「自分の父祖」と見る人は、その人が民族主義的偏見を懐いていることを意味しています。アブラハムを自分の父祖と見ることが出来ない人たちを、明らかに差別することばです。すなわちヨハネは、そういう偏見を懐くような心を改めなければならないと言っていたのです。
そして、そのように、これまで偏見に執していた心が改まって「正しい心」になるという結果が出るようでなければ、その人の罪の告白(悔い)は、自分が教えている「悔い改め」になっていない、と言うのです。きちんと「良い結果」が出ないことが分かれば、その原因の「悔い改め」がきちんと、正しくされていないことが分かる、と言うのです。原因が正しく原因になっているかどうかは、その結果が証明している、という理屈です。言い換えればヨハネは、自分の罪を自ら気付いて告白することを、ごまかしなしに、実際に、確実に、しなければだめだ、と言うのです。告白(悔いること)を嘘にしてはならないと言うのです。
以上のことから分かることですが、イエスがヨハネから受け継いだ「悔い改め」の教えは、心の中の教えであって、心の外に見えることがらの教えではありません。そしてわたしが見るところ、四つの福音書に見られるイエスの教えの断片の数々は、まさに「悔い改めの結果として現れるべき心のはたらき」を示しています。つまり正しく「悔い改め」をするための教えではなく、もしも正しく悔い改めることができたなら、もつことができるはずの「正しい心」を語る教えなのです。つまり結果だけが語られています。どうすれば本当に悔い改めることができるかは、イエスの教え(「福音書」)には語られていません。
すなわち、福音書に伝えられたイエスの教えの理解がわたしたちにとってむずかしい理由は、それが、自分が実際に悔い改めた経験がなければ理解できない内容だからです。本当の悔い改めに至らず、苦悩するままの心には、イエスの言う結果のすばらしさは、決して自分のものになりません。むしろ、教えられた通りであれば天国に行ける、というイエスのことばが、理解しがたいはずです。すでに述べたように、パウロも、イエスの言っていることを理解できていません。パウロの物語を信じてキリスト教徒になった人も、福音書に記されたイエスの教えは、結局は遠く離れた憧れの対象に過ぎないことを納得するほかないのです。
しかしこのようなことは、仏教哲学でも同じです。仏教の経典が描くことは、たとえば「空」(くう)の心とか、「無我」の心とか、どれも悟ったならば分かることがらであって、悟らない人間に分かることがらではありません。しかし人間が悟るためには、どうすればいいか、どの道をどうたどればいいか、その道筋を経典は描いていません。つまりキリスト教福音書と仏教経典の理解のむずかしさは、じつは同じことに起因しているのです。イエスの教える信仰も、釈尊の教える信仰も、信仰を得た正しい結果は、比喩を用いたりしてことばにすることがかろうじてできるけれど、そこに至る道筋は、ことばにすることがむずかしい、むしろまったくできていない、ということなのです。
じつは、このことは、ソクラテスの哲学でも同じです。ソクラテスの哲学は、ヨーロッパの哲学の一つに数えられていますが、古代においては一種の宗教と見られていました。彼の哲学は、宗教臭を払拭されたかたちでプラトンに依って伝えられたために、また当時の俗化したギリシア宗教やキリスト教に覆い隠されて伝えられたために、今では全くの「哲学」として一般に受け取られています。しかし彼自身のことばを伝えている『弁明』を読めばわかりますが、彼の哲学の目覚めは、デルポイの巫女を通じた神託によっています。「神託」は、神のことばですから、聖書に書かれた神の預言と同じ類です。
また「弁明」という作品に伝えられた彼の裁判時のことばを読み直してみると、晩年には自分の哲学の核心にあるものが「宗教」であることを、彼自身は隠さなかったようです。『弁明』のなかで、彼は自分がしていることは「神への奉仕」であると言い(23c)、自分は「神から贈られたもの」(31b)とまで言っています。さらに「神から遣わされた」(31a)となれば、ユダヤ教の用語を使えば、ソクラテスは自分で「わたしは預言者だ」と言っていることに等しいのです。
しかも弁明を始めたところで、彼は「善い結果」が出るように、神に祈っています。その時に彼が人々を前にした場で何度か口にした祈りのことばがあります。それは、一般に目にする『ソクラテスの弁明』の現代語訳では無意味な接続詞に訳され、隠されていますが、「神の意思の(=ものごとが神に在らしめられる)ままに」を意味する「エイエン」というギリシア語なのです。そしてじつは、キリスト教に祈りのことばとして伝わっている「アーメン」というヘブライ語も、福音書のイエスのことばのところでは、「まことに」とか、「よく言っておく」とか、「よく聞きなさい」と訳されていますが、本来は、「神のなされるままに」という意味なのです。明らかにソクラテスとイエスは、類似の祈りのことばをもっていたのです。これには何らかの理由があるはずですが、その推測はここでの論題から外れるので、ここではしません。
そしてソクラテスが人々に実際に話していたことは、クセノフォンの『思い出』にあるように、たいがいは誰にでもわかりやすい内容でした。しかし「無知の自覚」という究極のこととなると、やはり理解のむずかしい内容なのです。ソクラテスも、それを口にしたのは彼の人生最期となる裁判の弁明の場に至って、どうやらはじめてだったように見受けられます。イエスや釈尊の教えと同じように、肝心なところは、ソクラテスの哲学も、理解しがたいものとなっています。
したがって、ヨハネもイエスも、わかっているのに肝心なこと、すなわち、どうすれば心を改める結果が得られる本当の悔いができるか、それは教えていないのです。教えたくない、ということではありません。決して意地悪で教えないのではありません。それは、だれがどんなにがんばっても、わかりやすいことばにできないものだから、誰に対してであれ、言えないのです。
2024年2月12日 19時35分46秒 (Mon)
2月21日(水) 神学研究会のお知らせ
第117回 神学研究会
2024年2月21日(水)
< キリスト教の教え マタイの福音書 1 >
マタイの福音書のよりキリスト教をキリスト教たらしめているモノの本質は何かを探ります。
古代中世キリスト教神学に蓄積されたキリスト教の遺産より、現代の諸問題と重ねて学ぶことになります。
講師:八木雄二(東京キリスト教神学研究所所長)
2月21日(水)18:30−20:30 第3水曜日
(開場18:00)
参加費 500円(各回ごと、資料代として)
主催 東京キリスト教神学研究所
普段の会場とは違います。いつもの会場(三田分室)の近くの施設になります。
地図を確認してください。
目黒駅より徒歩10分ほどです。
所在地: 目黒区目黒一丁目25番26号田道ふれあい館内


主催 東京キリスト教神学研究所
申込はこちから→http://theology.hp-ez.com/page6
参照 http://www.catholic-setagaya.jp/
八木雄二所長の新刊著書『キリスト教を哲学するー隠されたイエスの救いー』、ぜひお買い求めください。

八木雄二所長の著書『1人称単数の哲学』
2月27日、読売新聞に掲載された森本あんり先生による書評です。



- 研究所長よりの挨拶
- 坂口昂吉先生インタビュー
- 研究所<沿革>
- 研究所<規約>
- 「キリスト教の教え」 八木雄二
- 神学研究会 講義
- 坂口昂吉 学問の記録
- 研究所活動報告
- 新:研究会のお知らせ
- 新:これまでの研究会
- 旧:研究会のお知らせ
- 旧:これまでの研究会
- 神学研究会の掲示板
- お問合せ
- 出版および講演依頼の申込
- 研究会員及び研究機関とのリンク
- メールマガジン
- フリーページ
最近の記事一覧
カテゴリー
アーカイブ
- アクセス数

- ページビュー数

