坂口ミ吉先生インタビュー

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坂口ミ吉プロフィール
 慶應義塾大学名誉教授。文学博士。西洋中世教会史専攻。主要著書『中世の人間観と歴史』、『中世キリスト教文化紀行』、『聖ベネディクトゥス』。主要訳書『中世思想原典集成12・フランシスコ会学派』、ブールダッハ『宗教改革・ルネサンス・人文主義』、デットロフ『中世ヨーロッパ神学』など。1983年 東京ボナヴェントゥラ研究所を創設し、東京フランシスカン研究会、東京キリスト教神学研究所と変遷する中で、多くの神学研究者を指導。東京キリスト教神学研究所の顧問として監督する。
 
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インタビュアープロフィール
中川晴久 無教会の流れを汲むプロテスタント教会牧師。早稲田大学第一文学部を退学後、教会献身。2006年 牧師按手を受け牧師。2007年 キリスト教主の羊教会主任牧師。2008年 フランシスコの霊性を求めて聖アントニオ神学院の門を叩いたことがきっかけで、東京フランシスカン研究会に入会。研究員として指導を受ける。フランシスコの霊性に影響を受け、大きく信仰のあり方を変える。異端・カルト問題にも関わる。

坂口先生宅にて先生と私(中川)と妻との3人で
 
―― この度は、東京キリスト教神学研究所が始まるにあたって、まず研究所の歴史についてお話がきけたらと思います。
 坂口先生が東京ボナヴェントゥラ研究所を設立したきっかけは何だったのでしょうか?
 
 東京ボナヴェントゥラ研究所が設立したのは、ミュンヘン大学グラープマン研究所所長のデットロフ教授との出会いが始まりです。
デットロフ教授はフランシスカン思想と日本の思想の相違に興味をもち、その研究のため日本を訪問されていました。
 デットロフ教授が聖アントニオ修道院を訪ねたとき、私がそこで教員をしており、またフランシスカン思想を研究しているということで、福田勤神父を通して紹介されたのが最初です。
一緒に話をしているうちに意気投合して東京ボナヴェントゥラ研究所を発足することとなり、私が研究所の所長を務めることになりました。
 
――私(中川)がまだ早稲田の学生であった頃の大学総長が小山宙丸先生でした。研究所には小山宙丸先生も参加されていたと聞いたことがあるのですが。
 
 設立の初めには、聖アントニオ神学院院長の福田勤神父、早稲田大学名誉教授の小山宙丸先生や名古屋大学教授の大鹿一正先生が準備委員として活動してくださいました。
デットロフ教授は毎年訪日しては講演会や研究発表をつづけ、たくさんの研究者の方々が集ってくださいました。八木雄二先生(東京キリスト教神学研究所所長)もこの頃から参加されていました。
 その業績は、私が慶應義塾大学を定年退職するまで、1984年の10月創刊の『ボナヴェントゥラ紀要』から1991年11月の第12号に収められました。

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――東京ボナヴェントゥラ研究所が東京フランシスカン研究会と改名されたのはなぜでしょうか?
 
 定年のために帝京大学へ移ったこともあり、研究所の働きは一時中断されていたのですが、帝京大学も退職するにあたり、福田勤神父の勧めもあって東京フランシスカン研究会(当初:東京フランシスカン研究所)として再び活動することになりました。
 デットロフ教授は、研究所が再開されてその研究が『フランシスカン研究 創刊』としてまとめられたことをとても喜んでくださり、『フランシスカン研究 vol.2』において祝意として励ましの文章を寄稿してくださいました。
 
――東京フランシスカン研究会より私も参加させて頂きましたが、私にとってよき学びの場となりました。神学が活きているといった感動を覚えています。
 
 東京フランシスカン研究会においては、前川登神父(フランシスコ会日本管区第4代管区長)や福田誠二神父(聖マリアンナ医科大・前教授)などが指導的な立場で活動してくださいました。
 八木雄二先生はよく研究発表をされていましたね。和田卓三さんが事務的なことがらなどの裏方でよく研究会を支えてくださっていました。
そのような中で、鈴木敦詞さんや中川牧師さんといった方々が研究会に参加して熱心に学ぶようになり、研究会は若い研究者の育成を担う必要性をもちました。
 また、教文館から現代キリスト教神学に至る研究書の翻訳を依頼されるようになると、研究所はフランシスカン思想にとどまらず、広くキリスト教神学全般を視野に入れるようになり、大きく前進する必要を持ちました。
 
――東京キリスト教神学研究所の所長を務める八木先生について紹介してください。
 
 この度、新しく東京キリスト教神学研究所としてスタートできることは喜ばしいことです。研究所所長である八木雄二先生は、私が八木先生の博士論文から関わってきた素晴らしい学者です。八木先生は私の研究対象としている後の時代も研究されているので、私の学問的な立場よりももっと別の視点を持っていると思います。その意味で、私の学問的な立場を批判されてでもいいし、また新しく付加するものをもってでもいいので、お任せしていきたいです。
 
――東京キリスト教研究所は広くキリスト教神学全体を研究していきたいと考えていますが、キリスト教神学といえば広いです。坂口先生にとってキリスト教とは何でしょうか?
 
 研究会では、従来のトマスを中心とした中世の神学哲学研究だけではなく、ボナヴェントゥラおよびスコトゥスをはじめとする神学の方にも特に注目していました。私自身はキリスト教の中にキリストの受肉論、ヨアキムから発する近代に通ずる新しい歴史観に関心を持っています。
キリスト教とは何かについて、私ははっきりとはいえませんが、キリスト教の本質を実践という側面から見れば、キリストが隣人に行ったこと、つまり愛の行為、それがキリスト教の中心です。マタイ25章にあるように、相手がキリストだと思わずに隣人にしたことがキリストにしたことです。フランシスコに見るものがそこにあります。フランシスコに特に見られるのは、隣人愛とキリストに対する愛は同じものであるということです。
 
マタイの福音書25章40節
 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
 
img_20130421-201116.jpg――キリスト教の本質は単純に言えば、フランシスコの人格に見られるような愛の実践にあるようにも思えるのですが、キリスト教神学は難しく膨大な神学に発展しています。これは実に分かるようで、やはり疑問です。
 
 キリスト教の受肉という思想、「神が人となられた」ということから、全て出てくることなのでしょう。神が人間に働きかけるというレベルではなく、神そのものが人間となられたということです。これがキリスト教の中で最も大きい衝撃的な事実です。これがなんぞやというところから、神学は膨らむのかもしれません。「神が人間になる」ということは、いろいろな形で言われてきました。しかし、神そのものが人間そのものになったという教えは他にありません。そこにキリスト教独自の隣人愛が生まれました。
 いろいろな宗教で人間が神さまになるということはあります。しかし、神そのものが人間になられたというのは、キリスト教だけにしかありません。それは当然のことながら原始キリスト教の中に内包されていたのですが、フランシスカン思想においてはっきりと語られました。
キリストはフランシスコの前にらい病人になって現れました。また、フランシスコがキリストの傷跡を自分の体に受けたということも、神そのものが人間になったということを明瞭に示しています。フランシスコの聖痕は、キリストの受肉を示しています。神さまと言うのは天上にいるだけではなくて、地上の人間そのものになり、地上の人間の苦しみを負ったということをフランシスコは体現してみせたのです。
 
――ルターはあえて神が苦しんだという言い方をするのですが、カトリック的伝統では、父なる神は苦しまないというのが正しく、キリストが苦しんだというのは大丈夫でも、神が苦しんだというのは危険なのだと聞いたことがあります。
 
 確かにそういえるのですが、父と子は一体であることは非常に強く言われていることです。
これはもともとあった考えですが、キリスト教の初めの頃には神が人間になったという教えはあったけれども、神そのものが人間となって人の罪を負ったとより明確に言ったのが中世人です。
フランシスコより前のキリスト教思想家は神そのものが人間になったこと、しかも肉体をもった人間になったということにあまり重きを置いていなかったのです。もちろん重要であったということはわかっていたけれども、フランシスコの聖痕において従来よりもはるかに直接に神が人間になったことを教えたということです。キリスト教の教えそのものの中に、神そのものが人間になったという思想があったのだけれども、それが十分に理解されずにきたのです。フランシスコは神そのものが人間になったということを、彼の実際の生き方や生活、さらに聖痕を通じて、受肉を理解させたのでした。かつて殉教という形ではあったでしょうが、フランシスコのように生きることそのもの、生活を通して、つまり自らの身体を通して理解し教えた人はいませんでした。  単に人間の精神を持つだけではなく、肉体を持つ人間となることをフランシスコは教えるのです。神が人となって私たちの内に住み給もうたという思想はあったのですが、神そのものが本当の肉体をもち、本当の人間となり、神そのものが苦しみたもうたと分かったのは、フランシスコにおいてでした。
 
――フランシスカン思想は受肉論を深めましたが、これはルター神学へ至る系譜といえると思うのですが。
 
 ルターがフランシスコと同じということは言えないのですが、ルターも単に神を最高の精神として見ていただけではなく、受肉を通して神を見ていました。古代、中世初期のキリスト教においては、神が肉体をもった人間となられたことは言われたけれども、神が本当に肉体をもった人間として、具体的な人間に現れたということはないのです。そこまで行ったのがフランシスコです。フランシスコにおいて、はじめてそれが体験として信じられ受け入れられたのです。この受肉論が中世後期のルターに見られ、近代に受け継がれます。
 中世のキリスト教が悟ったものはフランシスカン霊性における受肉の思想とフィオーレのヨアキムにみる新時代の到来です。
 
――中世が悟った新時代の到来とは何でしょうか?
 
 古代世界の新時代の到来としては、キリストが地上に来られて救いの業を行うというのはあったのだけれども、現実の人間の歴史の中に新時代ができるという考えが古代にはありません。しかし、中世のヨアキム以降、世の終わりに地上の新時代が到来すると捉えられるようなったのです。それが後の社会に伝えられました。
 今の人たちは教会も神さまも信じていないけれども、新しい時代が来ると思っています。それはかつて中世の末に勝利したキリスト教的な歴史観、終わりに霊的な新しい時代が到来するという歴史観を受け継いでいるからです。新しい時代が来るということは、今の人々はほとんど持っている考え方です。しかし、そのような新しい時代が来るという思想は、キリスト教から生じた考えです。簡単に言ってしまえば、キリスト教がなければ現代の進歩思想はありませんでした。 
 未来に新しい時代を予定することは、中世のキリスト教が未来にキリストの新しい時代を設けたことから始まるのです。アウグスティヌスの時代はそう感じていなかった出来事です。それがボナヴェントゥラ、ヨアキムの時代に生じて、形だけ受け入れたのが現代の進歩の思想です。一番初めのキリスト教思想を否定し、教会を捨て、キリストを捨て、最後には神を捨ててしまいキリスト教の考えの形骸だけが残ったのです。これは、ヨーロッパ思想だけの出来事ではなく、ヨーロッパの思想は全世界に広まって世俗化して日本にも受け継がれています。進歩の思想の根っ子を見てみると、宗教的な意味での進歩の思想があったのです。近現代の進歩思想というのは中世キリスト教より生まれたのです。
 
――現代のキリスト教神img_20130421-200727.jpg学を含めて、坂口先生が研究所に期待することは何でしょうか。
 
 いま述べたことがほとんどに思えるのですが、それに付け加えることがあるとすれば、次のことです。つまり、新しい時代が来るためには唯物論的な思想を越えて、精神とその中心である宗教を取り戻して、新しい歴史的な展望、新しい宗教的な人間論を回復することです。現代の人々は宗教的な意味での精神というものを忘れてしまっています。
ニューエイジやオカルトは俗悪なものがありますが、彼らはそのような欠けたるものを補っているのかもしれません。彼らも今の時代の危機が何にあるかということを何か感じているのでしょう。また、それが一般の人たちをとらえているともいえます。必要を感じているのです。
 
――宗教的人間論ということで、キリスト教思想によって回復するというと、宗教的な傲慢という批判を免れないように思うのですがどうでしょうか。これはエキュメニズムとか宗教対話になるのかもしれませんが。
 
 今まで話してきたことはキリスト教世界の話ですが、とくに仏教との関係でいえば、キリスト教と仏教ではものの考え方が違います。キリスト教というのは朝の信仰であり、仏教は夜の信仰であるといえます。そういう意味で対称的です。キリスト教は自分の朝の信仰、「光よ、あれ。」より全てが始まるという信仰に望みを託しています。しかし仏教は夕方の信仰で、つまり無へと連なる思想を持ちます。
 キリスト教はこれから仏教の世界と対峙するときも、ちゃんと違いを知り、仏教の持っている感じ方の優れた部分を学びとって行くことが大切です。それをどういう方法でするのかは分かりません。しかし、お互いに学びとって行くことが大切です。存在そのものを認めて、世の中に光をもたらさんとするキリスト教の立場と、存在そのものを否定して、もう夕暮れの消滅前に心境を捉えんとする仏教と、どれだけ違うかを理解したうえで、お互いに学び会うという大きな課題が、キリスト教神学にはあるのです。
 
――私自身が研究所で研究員として学んで5年になりますが、その中で気づかされたことは、神学というものが本来、人が学びたいと思えるものの中で最も魅力的なものであるはずだということです。神をテーマとし人間を知るからです。ところが、キリスト教神学は難しい言い回しや語彙のために、実際の生活や思考の営みにおいてまるで役に立たないものであるように思えてしまい、そのことが神学を知る上で大きな障壁となっています。この問題についてはいかがでしょうか。
 
 その通りです。これから学びたいと願っている人たちのためにも、この壁は乗り越えるか、打ち破られていくほかありません。ですから研究所は、先端のキリスト教神学の研究に寄与する一方で、神学を何も知らないという人のために基本的な事柄をよく理解し認識するためのよりよい機会を提供していかねばなりません。八木先生が素晴らしいのは、そのことをよく理解していることです。その意味でも、私は研究所の今後の働きに期待しています。
 

研究所活動報告

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