「キリスト教の教え」 八木雄二

2024年3月17日 19時24分28秒 (Sun)

キリスト教の教え 12

キリストの教え 12

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27.神の正義を知る「いのち」

しかし、その姿が目に見えず、その声が耳に聞こえない神の判断は、どのようにして知ることができるのでしょうか。
わたしたちには、一人ひとり、別々に、「いのち」が与えられています。その「いのち」は、「神からのもの」です。したがって、「いのち」を失うことも、それが神によるとき、そのときだけ、死は「良い」ことです。人間が勝手に「いのちを無きものにする=殺す」ことを、戒律は禁じているのです。
人間が制御できない自然界の「いのち」は、それゆえ、つねに神の判断で生滅を繰り返しています。「いのち」は、「神の判断をつねに受け取っている器」だからです。したがって、神の判断を知るためには、神に与えられた「いのち」によるほかありません。それは人間が作り出した生物学や医学の概念の中にある「生命」ではありません。どんなに優秀な医師の理性であっても、神が決めた生と死は、膝を屈して受け入れるほかないのです。
ところで、神が与える「いのち」は、個々人に別々に与えられているから、個々人の生死は、別々のときに、別々の位置で起こります。しかし、「いのち」の中身(本質)は、つねに同じと考えられます。中身(本質)が同じと見てよい理由は二つです。一つは、複数の生物がそれぞれもつ「いのち」をどれほど探っても、わたしたちは位置の違い以外によって、複数の「いのち」の本質を見分けることはできそうにないからです。もう一つは、地球上のあらゆる生物は「生きている」ことでは「同じ」と見なすことができます。したがって、生きているものはほとんど無数であっても、「生きている」ことの根拠を指している「いのち」の本質は、「同じ」と見ることが妥当だからです。
ところで、信仰上の「正義」は、各人に別々に与えられた「いのち」の同じ本質を通して、神から教えられる「正しさ」だと言えます。そして神は、永遠的、絶対的なので、その「正しさ」は、永遠的で、絶対的です。したがって、人は生まれながらの「いのち」の感覚を失わなければ、そしてその声を聴くことができれば、他者に教えられなくても、神の声を聴いて、神の正義を行うことができます。安定的に幸福で居ることができます。
一方、法律の「正義」は、人間がつくる「社会」に適合した正義、すなわち、安定的に社会が存続するうえで都合のよい正義です。それは異なる社会によって異なるものです。すなわち、時間(時代)により、周囲の状況により、構成する人間により、さまざまです。したがって社会の構成員は、それを、そのときどきに、あらためて周囲から学んでそれに従わないと、社会一般が認める正義の行動はとれません。他者から叱正を受けることになります。度を越せば社会から排除されます。ソクラテスもイエスも、神の正義にしたがいながら、社会の正義には従い切れなかったために、処刑されたのです。
 以上のように、十戒と法律文とは、似て非なるものです。

28.律法(十戒)の完全成就

 これまで述べて来たことで明らかなように、イエスは、十戒の戒律を、本来の意味で受け取っています。次のように言っています。
 「あなたがたは、わたしが律法や預言者の教えを廃止するために来たと思ってはならない。廃止するためではなく、成就するために来たのである。・・・おきてを行い、またそうするように教えるものは、天の国で大いなる者と呼ばれるだろう。・・・もしあなたが律法学者やファリサイ派の人々以上に神のみ旨を行う生活をする者でなければ、あなたがたはけっして天の国に入ることはできない。」(マタイ5−17、20)
 イエスは律法(十戒)や預言者の教えを成就するために自分は来たと言います。そしてその成就は、神のみ旨を行う生活をすることであり、その生活をするものが天の国に入ることが出来ると言っています。言い換えると、この文は、ヨハネのような預言者の教えや律法は、「神のみ旨」であり、イエスが実現を人々に求めているものは、まさにその成就、つまり完成だと言っています。なぜなら、それを実現することが、正しく信仰の教えに従った生活をすることだからです。そして正しく信仰の教えに従った生活をすれば、人は天の国に棲むことができるのです。
 律法学者やファリサイ派の人々は、教会の祭司たちの取り巻きです。彼らは祭司たちと同様、律法を社会生活において守るべき「法律」だと解釈して、それをしっかりと守ります。そして他者に向かっても、自分たちと同じように、律法に書かれている事項を守ることを要求します。しかし法律が守るように言うのは、「行動の規律」のみです。「心の規律」ではありません。ですから彼らが守るのも、じつは行動のみです。律法学者やファリサイ派は、実際行動や口では、たしかに神の定めた律法に忠実です。しかし、心の中は、猜疑心や妬みなどで、いっぱいかもしれません。じっさい彼らは、心の中は問いません。
一方、信仰に求められる規律は、「心の規律」です。正しく信仰をもつことは、その規律を心が守ることができたとき、はじめて実現されます。つまり心の内でだれかを殺そうとしない、言い換えると、心が「一切、人を亡き者にしたいと思わない」とき、さらに言いかえると、だれであれ人の存在を否定しない、だれであってもその存在を肯定し、受け入れるとき、十戒の一つ、「殺してはならない」が、まさしく成就すると、イエスは言うのです。
 じっさい、一般に、心が悪いことを思うことが先に在って、それにともなって悪い行動が起こります。したがって、心の結果として起こる「悪い行動」を止めることよりも、その原因、「悪い思い」を止めることのほうが、「正しさ」、「良さ」は、より完全です。したがって明らかに、イエスが、律法学者やファリサイ派の人たちより、「律法を完全に守ることを自分は求めている」と言うのは、行動ではなく心の規律を彼が求めていることを意味します。そしてそれがイエスの言う「真の信仰」なのです。イエスの言っていることは首尾一貫しています。
 じっさい、悪い思いを懐かない心は、「正しい、良い思い」しか懐きません。そして正しい心、良い心は、幸福な心です。その心は、天の国にいるのですから、イエスが言っているように、心の内ですでに律法を守れた人のみが、律法を完成し、成就しています。それゆえ、天の国に入ることができます。
 他方、すでに述べましたが、人が天の国に入れるのは、十分に「悔い改めた」結果です。それなしには天の国に入れないというのが、ヨハネとイエスの教えです。つまり十戒の完全成就は、「悔い改め」が十分になされてはじめてできることだと、イエスは教えているのです。つまり悔い改めが十分になされるなら、その心は、だれであれ、人の心を、あるいは、人の存在を、つねに肯定し、受け入れると、言うのです。十分に悔いることで心を改めた人は、人を無視したり、否定したり、差別することは、心の中でも、決してしないと、言うのです。そしてこのようになることが、律法の一つを成就することだと、言うのです。
 そして先のイエスに依れば、律法の一つだけでなく、律法のすべてにわたってそのようなことをイエスは求めていると言うことができます。つまり戒律が指摘しているすべて罪に関して、十分に悔いることを、イエスは「あなたに」求めていると言えます。
 しかし、ふつうは、「そのようになることは、完ぺきな聖人になることだ、自分は凡人だから、どんなに努力しても、聖人にはなれない」と考えます。そのように考えて、イエスの教えは不可能なことを要求していると思います。イエスの教えを、自分には手の届かない「理想のこと」と受け止めます。そのように考えて、イエスが求める「悔い改め」は、いい加減にしておけばいいと、口先だけのことで終わらせ、たいていの信者はイエスの教えよりも、だれでも思い込めば済む容易なパウロの教えに向かい、キリストの十字架像の前で、イエスの身に起きた悲劇を思って懸命に祈るだけの信者になるのです。
しかしすでに述べて来たことですが、イエスが言っていることがむずかしいと見えるのは、その教えが悔い改めを当人がした結果であるために、実際に悔い改めをした人にしか分からない内容だからです。自分はイエスが求めるような聖人にはなれないと、悔い改めを経験しないでイエスの教えについて諦めを口にする人は、実際には、これまでの自分に執着して変わろうとせず、罪を悔いておのれの心を改める努力を拒否しているだけなのです。そういう人は、イエスの教えは、ただそのことばを記憶しておくだけに終わります。イエスの言うことが分かるためには、読者の心が、すでに悔い改めを行い、その努力を、十分に経験済みでなければなりません。それなしには、イエスが言っていることは、よくわからなくて当然なのです。

31.怒る者は裁かれる

 イエスは十戒の全般について、「完全な成就」を求めました。実際行動において戒律を守ればそれで十分なのではなく、心の中の「思う」という、あなたの心のはたらきそのものにおいて、しっかりとすべての戒律が守られていなければ、完全に十戒が成就されたとは言えない、と言うのです。すなわち、戒律が行うように勧めて言っていること、たとえば父母を敬うことは、その通りに「父母を敬おう」と心に思い、そしてそれを思うだけでなく行動に移す、他方、行わないように言っていることは、実際にしないだけでなく、心でも思わない、そういうことが出来ていなければ、戒律が成就していることにはならないと、イエスは言うのです。
 つぎのように言われています。
 「あなたがたも聞いているとおり、むかしの人々は、『殺すな、人を殺した者は裁きを受ける』と命じられていた。しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者はみな裁きを受ける」(マタイ5−21、22)
 十戒の内の「殺してはならない」の戒律に対応した話です。「殺したい」という思いは、相手に対する「怒り」の思いです。怒りがなければ、「殺す」ということばは、そもそも心に浮かびません。したがって、心においても完全であることを求めるなら、心の内の「怒り」は、無くさなければなりません。心に怒りが在るなら、その時点で、つまりいまだ行動に移っていない時点で、イエスは、あなたには人殺しの罪があり、「あなたは裁かれる」と言うのです。
じっさい、「裁かれる」ということは、「有罪判決」が確定することです。実際に人を殺せば、むろん罪ですが、心に「怒り」が在った時点で、すでに殺害の罪があると、イエスは言います。これが「心の動き」(思うこと)までも問題にするイエスの教えです。「有罪」と聞けば、法律違反を裁く通常の裁判しか思い浮かばない人には、まったく分からない教えです。たしかに普通の人は、心の内のことは、実際に他者に危害を及ぼしているのではないから、許されるべきだろうと、考えます。心の中で人を悪く言うことはだれにでもあることで、それまで取り締まったら、牢の外に居られる人はだれも居なくなってしまうと、ふつうは考えます。
じっさい誰かのことを悪く言ううわさ話は、いつの世にもふつうにあることです。それまで一つ一つ取り締まったら、世の中どうなるでしょう。窮屈で仕方がない。警察国家だ、全体主義だと言われそうです。そういうことを知って、多少の悪口は赦そうと考える人こそ、良識的で優しいと、むしろ世間では考えられています。
イエスは、神の子で、当然優しいはずだから、「心で思ってもいけない」と、無理難題を命じることは考えられないと、読者は思うかもしれません。あるいは、彼自身は神の子だからできたかもしれないが、凡人の我々には無理だ、と考えるかもしれません。
しかしこれも、「悔い改め」を知らないために起こる無理解なのです。もともと彼が言う「悔いなさい」ということばの中身は、自分の心の内に繰り返し起こる「悪い考え」を、自分の心を苦しめる根源の「罪」(原罪)・「不正」・「悪」であると、自分の心が正しく判断することです。その「心の内の罪の存在」とその罪を「悪いと考える」ことは、他者に見られるものではありません。心の内の存在であり作業ですから、人には秘密にしておいても、問題ありません。そもそも戒律は神との「心の契約」です。心のうちまで見ている神を意識すれば足りることで、他者の目を気にする必要はありません。神との約束を肝心の心で守ろうとすることが、まさに心から神を信じることです。心からのものなら、当然、神はそれを認めてくれます。外見で、あるいは、外聞で、人に信仰を認めてもらうことなど、神は求めていません。したがって、その必要はまったくありません。
ですから、必要なことは、だれにも気づかれない心の内で、すなおに心の内に起きた「悪い考え」を見つけて、それを「とがめれば」いいのです。「悪い考え」が自分の心に起きている事実を、ただ「嫌なこと」だと、心から認めればいいのです。わざわざ他人に告白する必要はありません。他人に言ってしまうことで、他人から陰口をたたかれることはありません。自分の中だけにとどめておいて、それで構わないのです。なぜなら、繰り返しになりますが、あなた自身の心が、神と一対一で契約を取り交わしました。それが「十戒」です。このことについて他人に証人になってもらう必要はありません。人間にはこの契約に関して証人になる資格はありません。「神自身」が契約相手だからです。
既に述べたように、第二戒と第三戒は、それを神自身が保証していることを示しています。他人に証人になってもらうことは、他人に聴いてもらうことです。しかし、他人に言うことは、むしろこの二つの戒律に違反することです。じっさい、他人に証人になってもらわなければならないと思うことは、神を信じていないことを神に告白するようなものです。神をわたしは信じていませんと、告白することです。ここが神との契約が特別なものであるポイントです。ふつうの社会契約は、文書など、客観的に証明されたものでなければ認められません。しかし、神との契約は、神が認めれば成り立つことであって、他人の証言や、誰の目にも留まる証書は、まったく必要ないどころか、あれば、契約は未成立です。
一方、実際行動の制御ばかりに気を遣うことを求められているのが「社会人」です。現実社会に生きる人間は、日頃から、社会がもつ法律その他のルールによって善悪を判断するように人々を教育しています。人々は、この社会に依る日頃の習慣づけに気付かずに生活しています。法律などが定めたルールこそが、みなが認める正しさであり、神も、同じように考えていると、思っています。そのように考えることを、みなが当たり前だと思っています。
イエスは、それを止めることを教えているのです。大切なことは、まず「あなたの心」が、あなたの心に直接相対している「神」を前にして、「悪いことをしない心になる」こと、「罪を犯さない心になる」ことだと、教えているのです。
あなたに神から与えられた「いのち」は、あなたの心がそうなるようにする力を、十二分にもっています。それにもかかわらず、人は社会の罰則を気にするばかりで神のことを忘れ、社会の主張にばかり気をつかって、自分の心にある「いのち」自身に、善悪を聴こうとしないで、日々を過ごしてしまっているのです。
じっさい、神の目よりも人目を気にして生きる人は、罪は心の内にとどめて置けばいいと考えます。これこそ神に対する裏切りだとは考えません。隠しておけるからと、罪を心の内に放置してしまうのです。心の中を変えようとはしません。変えられないと思っているのです、心の中の欲望を変えること、それを無くすことは、自分のアイデンティティーを失い、自分を見失うことだと信じているのです。プラトンが書いた『ゴルギアス』のなかで「カリクレス」という人物が、ソクラテスを軽蔑して、自分の主張を述べています。
「一番正しいのは、哲学と政治のその両方にたずさわることだと思う。哲学には、教養のための範囲内で、ちょっとたずさわっておくのはよいことであるし、若い時に哲学するのは、少しも恥ずかしいことではない。しかし、もはや年もいっているのに、人がなお哲学しているとなると、これは、ソクラテスよ、滑稽なことになるのだ。・・・実際、いい年になってもまだ哲学をしていて、それから抜け出ようとしない者を見たりするときは、ソクラテスよ、そんな男はもう、ぶん殴ってやらなければいけないとぼくは思うのだ。なぜなら、そういう人間は、いかによい素質をもって生れて来ていたところで、もう男子たる資格のない者となってしまっているからだ。かの詩人(ホメロス)が、男子たるものの栄誉を輝かす場所としてあげている、あの一国の中央の、人の集まるアゴラを避けて、社会の片隅にもぐりこみ、三、四人の青少年を相手にぼそぼそとつぶやくだけで、その余生を送り、自由に、大声で、思う存分の発言をすることもなくなっているからである」(プラトン著『ゴルギアス』:岩波文庫1967年;124‐5ページ)。「つまり、正しく生きようとする者は、自分自身の欲望を抑えるようなことはしないで、欲望はできるだけ大きくなるままに放置しておくべきだ。そして、できるだけ大きくなっているそれらの欲望に、勇気と思慮とをもって、十分に奉仕できる者とならなければならない」(同書;142ページ)。
彼は、自分のもつ欲望をむしろできるだけ大きくして、それに奉仕する努力をすることが正しいことであり、徳のある人間だと言います。それこそ社会の内の強者であり、勝者だと言い張ります。ソクラテスはそれを正そうとしますが、カリクレスは応じません。カリクレスの言は、競争社会に生きる人間の本音です。本音だから、社会に生きる人間として、それを正すことには応じられません。じっさい、ソクラテスは、このカリクレスに、「世の中のすみっこで、若者相手に話しているだけ」の、「敗者扱い」されています。
これまでの自分を変えたくないと、人は罪を懐く「既存の自分」に執着してしまうのです。イエスはそれを止めることを命じます。自分の心に持つ「悪い考え」を、自分の心が「嫌気する」ことが「悔いる」ことだと、教えます。悔いる対象は、自分の心のうちに在る「悪い考え」ですから、その罪は、簡単に見つかります。
そして、「悪いこと」を、醜いこと、汚いこと、嫌なことだと思うことは、少しもむずかしいことではありません。ごくふつうの感覚です。むしろ問題は、悪いことを悪いことだと、正しく受け取る心の判断力です。じつは、この心の判断力が、神を信じることができる「いのち」そのものです。それが失われていたら、あなたの心は、すでに死んでいます。どうにもなりません。心自体は、神から見れば、死んで腐ってしまっています。死んだものは自ら生き返りません。自分を救うことができない心です。特別な神の恩寵でもない限り、救われて天の国に行く道は完全に閉ざされています。
しかし、それが罪(悪いこと)であるかどうかは、自分の心に、かすかであっても「いのち」が残っているのなら、必ず分かります。なぜなら、その「いのち」は、神の分け前だからです。つまり「いのち」は、神の持つ判断力であり、善悪を判断する絶対的な尺度です。ところが、心の中の罪を自ら大目に見て、心の中で悪を赦し続けていると、罪に目をつぶることを日常にすることによって、しだいに心が曇って、この「いのち」を見ることができなくなってしまいます。
そのため、多くの人が、善悪の判断が自分だけで絶対的にできず、周囲の人たちの判断を聞きまわり、それに、つねにならうのです。自分の判断をもちません。しかし、他人の判断に従うことは、神を信じないことです。人間しか信じていません。むしろ神が信じられないから相対的な社会正義のみを頼りに生きるのです。ところが、相対的な正義は、時代に依って、社会集団に依って、変わるので、人はつねに周囲の人々の心変わりを気にかけていなければなりません。それに自分の価値観をつねに合わせていなければなりません。そのために、毎日、社会からつまはじきにされないかと不安に駆られています。すなわち、機械を使った情報集めや、おしゃべりに余念のない生活しか送ることができません。
じっさい、たいていの人が、「どのように生きたらいいか」、あるいは、様々な場面で、「どうしたらいいか」悩む生活を、通常の生活にしています。幾分悠長に構えていられる人は、周囲の人たちを見て、そういう日々の悩みを、特別な事ではないと思っています。親しい人の間で、あるいは本の中で、新聞紙の紙面で、それを共有して自分を慰めています。しかしどうしたらいいか自分だけではわからない状態は、自分の中の「いのち」を見失っている状態です。したがって、生きる場面で「どのように生きたらいいか」一人思い悩むなら、その人の心は曇って、自分に与えられた「いのち」を実際には見失っています。そしてそのことには気づかず、自分が見失っているのはどこかにあるはずの正しい知識、幸せそうに生きているほかの人が、手に入れているに違いない情報だと思うのです。
「いのち」を見失った人は、社会常識、社会の大方の意見、あるいは、信頼された権威の意見を頼りにします。それは一般的に「法」と呼ばれているものです。習慣法であったり、すでに裁判で議論済みの法例であったり、社会全体が正義の目安にしているものです。しかしこの種の目安は、人工知能(AI)がもっとも効率的に学びます。ですから、社会常識に属する判断なら、これからはAIがもっともよい専門家になるでしょう。
なぜなら、それは大変なスピードで、しかも正確にことばから学ぶ技術だからです。したがって、既存の裁判例に基づく裁判は、AIによる裁判がもっとも信頼されるものになるでしょう。科学の世界で報告された研究結果にもとづく判断も、AIがもっとも正確にできるでしょう。研究の評価も、AIがもっとも客観的にすることができるでしょう。したがって専門の科学研究者も、AIを真理発見のために大いに頼りにします。そして他の人々はそれを見て、自分たちもAIの判断にしたがって生きることが「科学的」だと考えて満足します。
しかし、法にもとづく善悪の判断ではなく、「いのち」に基づく善悪の判断は、AIにはできません。AIは、「技術」に過ぎないからです。あらゆる技術は「両刃の件」と言われます。技術からは、善悪いずれの結果も生まれます。科学が生み出した技術は、つねに、使う人間の判断に依って、良い結果を生みだすこともあれば、悲惨な結果を生みだすこともあります。これは、さまざまな領域で人類が繰り返し経験してきたことです。科学技術のうちでAIだけは特別だという判断は、まったくの誤りです。AIは、技術に過ぎない以上、「これこれは良い」という判断の事例を無数に学ぶことはできますが、「この場合」という特定の現実を前にしたとき、正しい判断をする知識はもちません。AIの判断は、過去の事例からの確率的に高い(平均的)判断に過ぎません。
「いのち」を基準とした善悪、美醜の判断は、法に依る判断とは違います。「いのち」を基準とした判断は、「今、ここ」に関しての絶対的な判断であり、神の判断です。「いのち」の判断ですから、だれにとっても、全身全霊の判断です。他者から「違う」と言われる可能性はありません。なぜなら、それは社会的な判断ではないからです。あなたの「いのち」による判断は、あなただけの判断です。ただ、その「いのち」は、他者の内にも在る「いのち」ですから、他者からも崇敬される判断です。なぜなら神の判断だからです。
そしてこの神の判断を自分の判断にするためには、一度は人が見失った「いのち」を、再び見出さなければなりません。そして見失った「いのち」を再び見出す方法として、イエスは「悔い改め」を行うことを説きます。自分の心に起こる「悪い考え」を、本当に「悪い」と認めることが、「悔いる」ことです。そのときあなたの心は、罪深い考えを、その通りに「罪深い」と受け取ることができます。それまでは周囲の人々にしたがって、神から罪を免除してもらうことにすがっていました。それは、いうなれば、「罪に対する免疫を獲得する」(心が見ないでいられる)ことを、一生懸命していた毎日の習慣です。それを、この際取り止め、むしろ罪深さを見出して、それを「拒絶する力」を得る努力を始めることが、「悔い改め」です。
たしかにおのれの罪を認めることは、「辛い」ことです。しかしそれは心が「いのち」を取り戻すための「苦い薬」なのです。あなたの心がその苦い薬を飲む勇気がありさえすれば、その薬は確実に効くのです。すなわち、あなたの心は、悪い考えをもつことを、おのずから拒絶することを学びます。なぜなら、神に作られた心自身は、教えられなくても、すなおに悪い思いを嫌気するからです。心自身がそうなれば、悪い思いはしだいに心に生まれなくなります。
そして自分の心の内に起こる些細な罪によく気付くようになります。そういう力が身に付きます。そしてどんなに些細な罪でも、「おのれの罪」として自覚できるようになります。その数は、無数です。その種類は、十戒に揚げられた罪の種類すべてです。
以上が、イエスが「悔いる」と言っていることです。そしてこの仕事をやり遂げるなら、心は「改まる」のです。この項目で取り上げた「怒り」も、心の罪の種類の一つです。ですから、悔い改めをした心なら、イエスが言う「怒りを懐かない」ことは、少しもむずかしいことではありません。なぜならその人はすでに「悔いる」ことで、「怒りを懐くことが無い心」を、少しずつ、取り戻しているからです。

 

2024年3月17日 19時12分05秒 (Sun)

キリスト教の教え 11

キリストの教え 11

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24.イエスの十戒理解

イエスは、「十戒」の戒律を守っている人を、次のような人であると考えました。すなわち、その心は、一つの神のみを主(あるじ)と考える心であり、心の内でつねに神を目前にしているので、神の像を造る必要を覚えない心であり、神を身近に覚えているので、神の名をみだりに唱えることのない心であり、生かしてくれている神に感謝しているので、他者のものを決して盗もうと思わない心であり、同様の理由で、決して偽りを考えない心であり、決して人を殺すことを考えない心であり、異性をみだらな思いで見ない心だと、考えていたのです。
まさにこのように心が、心の底から十戒の戒律を守る状態であれば、その人の心は、幸福な心であり、天の国に棲む人だと言われるに値する、というのです。反対に、このような心ではなく、このようなことに反する心をもつ人は、天の国に棲んでいないと、イエスは言うのです。
もしも十戒の内容がそのようなものなら、十戒は神を信ずる心、神との関係を実際に保っている心の在り方を示すものであって、国家社会の秩序を守る法律文ではありません。したがって、本来、十戒には法律がもつような罰則規定は、まったくないのです。ですから「申命記」の細かな罰則規定は、イエスによれば十戒に対する誤解に起因するものです。じっさいもしも十戒が、神が人間に与えたものであり、あなたの心が神を本当に信じているかどうか、神が試すものだとすると、その結果について神がどうするかは、神の考え次第であって、神にまかせなければなりません。したがって十戒の規定に違反したものを、人間が罰することは、神の権利を侵害することです。ですから十戒の規定に違反したものを人間が処罰すれば、処罰した人間のほうが、むしろ神に依って処罰されなければなりません。
神が信仰者に求めた戒律に信者が違反することは、たんに、信者が天の国に棲むことが許されず、天の国から追放されることを意味するだけです。つまり天の国に棲んで神に保護されて暮らすことができずに、人間の分業体制のなかでの苦しみに耐えて暮らしていかなければならない、ということを意味します。
それが神に見放された人間の運命です。見放すことが罰だと言えば、たしかに神が与える罰かもしれません。ただ、正確に言えば、神は「見放して」いる、つまり「相手にしない」だけです。罰を与えることは、その人を相手にして、はじめて行うことができます。神は天の国に棲まない人を「見ない」と言っているので、「神が見つけて罰している」と言うのは、まったく不正確な表現です。
要するに、戒律が表そうとしているのは、イエスに依れば、本物の信仰が実現する心の姿です。言い換えれば、どの戒律が述べていることも自然に守られている心の状態であるとき、そのときだけ、その人は神に認められ、神に見守られた生き方をしています。その人は天の国に招かれた人であり、幸いな人です。イエスに依れば、そのように信じられるのです。

25.十戒の意味

 「申命記」の記述が間違った理解に基づくものだということ、すなわち、十戒が本来は信仰を示すものだということは、また、もとの原文であるヘブライ語が示唆しています。というのも「あなたは~してはならない」と、現代語で禁止命令として訳されているところは、ヘブライ語の文法にしたがえば、「あなたは~しない」とか、「あなたは~しません」と訳したほうが、じつは正確になる文なのです。一般に見る聖書が禁止命令文の現代語訳を示しているのは、たんにそのほうが現代人には分かりやすいからにほかなりません。正確な訳をすれば、わたしがこれまでしてきたような長々とした説明がなければ、本当は分からない内容になるからです。
とはいえ、正しい訳をして、その意味を上述のように理解しようとすると、今度はその説明を理解するためには、神との間につぎのような場面があったと、読者は心の内で想像する必要があります。
 じっさい、信仰は心の世界にあるものです。その内容を理解するためには、心の内で神を想像する必要があります。そして十戒が前提にしているのは、「あなたが」実際に神を前にして、神に約束する場面です。そういう場面を実際的に想像する必要があるのです。
まず、あなたは、神に会っているのですから、天の国に居ます。天の国に居て、そこからもう二度とあなたは遠ざけられたくない、と思い、神にそれを申し出ます。かつて人祖アダムは、禁じられた木の実を食べたために天の国を追放されました。したがってあなたも、いったんは天の国から遠ざけられて辛い思いをしました。ただ、何が原因か、それは分からないままに、今は天の国に居てあなたは神を目の前にしています。あなたは、今度は神から木の実を食べるなとは命じられていません。神からは、つぎのことを、あらためて求められます。
第一に、「あなたは、わたし以外のものを神としないこと」。第二に、「あなたは像を造ってそれを拝まないこと」。第三に、「あなたはわたしを主とするが、その名をみだりに口にしないこと」。第四に、「あなたの父と母を敬うこと」。第五に、「安息日を決めてその日を聖なる日とすること」。第六に、「あなたは殺さないこと」。第七に、「あなたは姦淫しないこと」。第八に、「あなたは盗まないこと」。第九に、「あなたは偽証しないこと」。第十に、「あなたは隣人の妻、しもべ、はしため、ろば、その他、隣人のものをむさぼらないこと」。
 これらの求めに応じることは、人間ならだれにでもできることだと、神は考えています。ですから、それがあなたにできないとき、つまり十戒を守れないとなれば、あなたは、神が作った本当の人間ではないと見なされ、天の国を追放されます。
イエスは、十戒という戒律をわたしたちが聴くとき、神から自分にこのように言われていると考えなさいと、教えているのです。このとき、人は、神を自分の前にしていることを想像していなければなりません。そしてこの想像が、心からのものであるとき、信仰が本物になるというわけです。なぜなら、この想像をするとき、少なくともそのときだけは、神を端的に自分の主人であると、あなたは認めていることになるからです。じっさい、「あなた」が目の前にしたものを、「神」ないし「主」と認めることが、神を信ずることだからです。言い換えると、十戒をあなたが守るかどうかで、神に対するあなたの信仰が、本物かどうか、神があなたに十戒を示すことによって試す、と言うのが、イエスの教えていることです。
十戒がこういうものだとすると、神は、あくまでも一人ひとりの「あなた」を相手に、十戒を示しています。したがって十戒は、ユダヤ民族の「集団がもつ信仰」を規定しているのではありません。その契約は、神とあなた一人の、一対一の契約です。そしてこの契約が守られている間だけ、あなたの信仰は、神に認められます。そのときは、神は「あなた」個人に恵みを与えてくれると約束しています。他方、十戒の約束が破られるのなら、神はあなたの信仰を認めず、あなたが自分との約束を否定したと見なし、「あなた」には、恵みをもたらしません。あなたは「神とは関係ないもの」と神は判断して、神はあなたを見放します。
イエスは、このように考えているのです。
 つまり十戒の戒律違反には、本来なら、このような神による処罰のみがあります。たとえば牢に入れる、手錠をかける、財産を処分する、その他、司法が行うような暴力的処罰は、一切ありません。したがってあなたが神の処罰を恐れるかどうかは、あなたの心の問題です。信仰を捨てれば、戒律を守る理由はありません。神はあなたにとって無ですから、恐れる理由はありません。ただそのときは、あなたは神との関係を失い(見捨てられ)、神に頼むことはできなくなります。すべての苦難を、自分の力で切り開いていく必要があります。どちらを選択するかは、個人の生き方です。だれもが他者(人間)の暴力から無関係に、自由に決められる選択です。
じっさい神を信ずるかどうかの選択は、あくまでも自分の「いのち」をどのように自覚するか、という自分個人の問題です。この問題は、同時に、自分のところに在る「いのち」に関する理解の問題です。その「いのち」は、中身は共通していますが、自分のところにある「この‐いのち」は、生まれたときから自分のところにだけ在るもので、世界に、唯一のものです。信仰をもつかどうかは、「この‐いのち」が、神と関係していると考えるかどうか、です。その「いのち」をどのようなものと判断するかは、それを認めることができる自分しかいません。その「いのち」は唯一のものです。他者のものと全く同じものではないうえに、自分のところにしかないものだからです。そのために、神を信ずるかどうかの問題は、他人に預けて他人に判断してもらうことはできません。
一方、国の法律にかかわる問題なら、それは国家公共の問題として理解されます。問題の解決策を他者に考えてもらうことができます。じっさい法律は心の外の行為に関する規定なので、あなたの心がどうであろうと、それとは無関係に、法律に依って罰が与えられる可能性があります。あなたが無罪だと主張しても、権力者は法律にもとづき、それを無視して罰を与えることができます。権力者に対して法律を盾に主張を貫くためには、専門家の協力が必要になります。あなたは法律をよく知る弁護人に問題の解決を頼むことができます。こうして地上の生活には何事にも分業体制における人間どうしの協力が必要であり、それができることが明らかです。むしろ互いに金銭を必要としているのですから、分業体制の社会とその法律は、人間どうしの協力を促しています。
以上のことは、わたしたちの周囲に起きている日常において、明らかです。したがってやはり法律とそれが実現を目指している正義は、国家秩序の分業体制を円滑に、安全に動かすためのものであって、個々人の信仰が過つことがないことを目指して定められたものではありません。そういうことも明らかです。一方は国法であり、他方は宗教の戒律です。二つは、区別しなければなりません。
 ですから仏教でも、戒律違反に対する処罰は何もありません。ただ古い時代に、懴悔(さんげ)と言われる半月ごとの儀式がありました。修行僧が自分の戒律違反を人前で告白する儀式です。人前に罪をさらすことは恥ですから、辛いことです。それゆえ、処罰と言えば、処罰です。しかしこの場合も、僧であることをやめれば済むし、僧であっても、口をつぐんでおけば済むことでした。いずれにしろ身体的強制力はないので、法律に依る処罰は、仏教の戒律にもありません。

26.二種類の正義

 しかし、見方を替えれば、国家の法律も、信仰上の約束と同じく、人間の間の約束事だと言うことができます。しかし、法律は分業体制の社会のなかで、その社会の安全を守るために、適宜、作られます。社会の中に流れるお金も監視対象です。社会の監視からはずされたお金は排除しなければなりません。お金に依って流通するものについても、監視され、誤りがあれば排除しなければなりません。
法律の目的は、社会の安全の確保です。したがって法律が求める正義は、特定の社会生活が安全なものとなるために求められる各自の「行為の正しさ」です。それゆえ、絶対的なものではなく、社会が異なれば、人に求められる正義は、当然、異なります。
たとえば、現代社会では車の事故が多発します。それによって死ぬ人も少なくありません。しかし自動車が無かった時代の戒律には、自動車のことは書かれていません。一方、十戒は「殺してはならない」と言っています。人を殺すことが、自動車に起因するかどうかは問題になりません。殺人は明確な戒律違反です。では、殺人を引き起こした車の利用は法律違反でしょうか。
十戒が車の利用は戒律に違反していると言っても、法律は車を無くすことが正義だとは言いません。なぜなら車が無ければ現代社会の経済が成り立たないからです。経済とは、いつも分業による生産と流通、消費の姿です。それによって人間の社会生活が、安全に、円滑に成り立っています。法律は、この社会の安全のための正義として明文化されているものです。ですから、法律は、個人を守ることよりも社会全体の経済を守ることを優先します。そのため、法律を作る立場の人は、たくさんの人の死があっても、車を無くす選択はしません。ただし事故が起きて経済が滞るのは避けなければなりません。ですからあくまでも経済のために、個々人が車の取り扱いに注意することを義務化する法律を、それが正義であるという理念のもとに、作ります。
 わたしたちが社会のうちにもっているものは、何事も、人が生きるためにあるものです。信仰は、人が人として、あるいは、神が作った生き物として生きるために、もつものです。戒律は信仰の規律です。しかし法律も人が安全に生きるためにある規律ですから、この点だけを言えば、戒律と法律は同じに見えます。ところが、信仰の教え、あるいは、信仰する者に与えられる戒律は、信仰する者一人ひとりが整えるべき「心の正しい状態」を表しています。じっさい法律が「人の社会集団が安全に存続する」ために、社会の構成員が「正しい行動を取る」ように規制しているのに対して、戒律は、「個人が正しく信じて自分を生きる」ための指針です。
ですから社会が安全に存続するために武力を必要とするときは、他国に脅威を与える武力の保持は、社会にとって「正義」だと言われます。言うまでもなく、戦争が始まれば抗戦することが「正義」です。また、国の名での人殺しは、一人でも「正義」であり、大量でも「正義」です。大量であれば、むしろ名誉とさえ言われます。喜劇王チャップリンも指摘したように、大量であれば、むしろ国家の名で賞賛されます。ふだんは人殺しは絶対悪だと言う人も、社会の安全を著しく損なうと考えられる人間は、国外に永遠的に排除するか、この世から永遠的に排除するために死刑にすることが「正義」だと、主張します。法律がもつその理屈は、戦時も平和時も同じです。
信仰の規律を示す戒律は、それと相反します。「殺す」ことを、わたしたちが生きている場面から「排除する」ことを、戒律はつねに要求します。人殺しは、平和時の死刑であれ、戦争時の勝利の戦いによるものであれ、絶対悪です。信仰によれば、神から与えられた「いのち」は、神から「生きる」ことを命じられています。自分であれ、他者であれ、人間が勝手に「いのちの奪取」=「死」を選択することは、神の命令に違反します。生死は神の権限だからです。人間を含め、生きとし生きるものは、「生きる」ことも「死ぬ」ことも「神の命令」(神の判断)に従わなければなりません。人間が神の僕として従順にそれに従うとき、まさに「神の正義=戒律の厳守」が、わたしたちが生きている現実の生活の場に成就します。
じっさい正しい信仰をもつこととは、神のそのとき、そのときの判断を知って、それに従うことであって、いたずらに自分の判断を実現することではありません。


 

2024年3月17日 19時05分00秒 (Sun)

キリスト教の教え 10

キリストの教え 10

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20.分業体制の日々が見失うもの

イエスには、分業体制の中にあって、そのことに疑問を持たずに居る人たちが、本当のところ、どうなのかが見えています。決して、本当の意味で幸福ではありません。とりあえず「このいのち」が自分のところに在るから自分は現に生きている、だからそれは自分のものだと、疑問も持たずに生きる人は、まったく天の国以外の国に生きる人だと、イエスは言うのです。言うまでもなく、そういう人は、生きてはいるのです。ただ、「幸福な状態」で生きてはいないのです。すでに述べたように、天の国に生きる人が、イエスに依れば幸福な人です。ですから、イエスに依れば、分業体制という、天の国にはない社会の体制うちに現に生きている人はみな、「不幸な人」なのです。
分業体制の中で自分の仕事と言えるものを見つけた人は、その仕事に生きがいを見つけたと言います。毎日、生きがいのある仕事に打ち込み、欲しいものが手に入るだけの収入がある生活が、そこにはあります。それが幸福というものだろうと、多くの人は考えています。しかし、そうは言っても、分業体制の中で、そのような仕事を見つけ、従事できる人は、あくまでも一部です。全員ではありません。しかも、そういう人であっても、一生、そのまま過ごせるとは限りません。いつどんな災いが生じるかわかりません。また生きがいのある仕事を中途であきらめなければならない羽目に陥ることは、十分にありえます。そしてそのときは、そこまでは考えていなかったと、やはり悔やむのが日常です。人はいつか死ぬものですから、そのような悔いは、必ずやってくると言えます。
それに対して、イエスが言う分業体制と無関係な「幸福」は、壊されることのない幸福です。死によっても、壊されません。なぜなら、自分の生死を神に預けているとき、心は身体の生死を超越したところにあるからです。
不幸な生き方をしている、というのは、よく生きていない、充実した生き方をしていない、真実に生きているとは言えない、そういう生き方をしている、ということです。分業体制の社会に生きている人が不幸だと言われるのは、分業体制のうちに生きることは、特定の限られた仕事にかかわって日々の大半を過ごすからです。ほかの仕事はほかの人に任せ、互いに自分の生活のために必要なものとその量を、お金で交換すればいい、と思って暮らしています。しかしこれだと、自分が生きて行くために必要な全体を自分でまかなうことがありません。すると、自然、自分が日常的に見知ることが、自分が生きて行くために必要な全部ではなく、ごく一部でしかない、ということになります。

わたしたちの人生が充実するためには、心の充実が不可欠です。むしろ身体的欲求よりも、心の必要を満たすことのほうが、人生の充実のためには優先度が高いものです。なぜなら、人生の充実感を受け取るのは、心を通してですから。胃の充足感は身体を通してです。しかし心が働いて、はじめて心が、「自分が生きている」と実感するのですから、心の満足感抜きには人生は充実しません。これは他人がどう言おうと、関係ありません。他者から、「あなたの人生はとても充実していた」と言われても、自分に充実感がなければ、他人の評価は心に響きません。自分が「充実していた」と思えなければならないのです。そして、反対に、むしろ人生の充実感には、自分の心の充実感だけで十分です。他人の評価は不要です。
ところで、心は自分自身とそれ以外の世界を認識します。それがまず心の基本的はたらきです。そのはたらきを前提にして、心はつぎに、ではどのように行為するかと考え、判断します。そして実際行動が生まれ、その結果を認識します。この一連の心のはたらきが、日常、不断に行われています。必ずしも、意識的ではありません。もともとわたしたちの意識は、一歩遅れるものです。意識されるものは、一歩遅れて心が反省するなかで現れてくるものです。ほとんど無意識にわたしたちは知ったことから推論し、判断して、行動にまで移しています。
さて、分業体制の日常においては、一個の人間の生活に必要な作業を一個の人間がすべて行うのではなく、みなで分担します。したがって、この社会のなかでの日常において人が認識するものは、自分が生きて行くために必要な認識のすべてではなく、一部に過ぎません。なぜなら、一部の生産現場しか知るすべがないからです。言い換えると、わたしたちは自分が生きる上で必要な多くの部分の認識が欠けた状態で、それについて無意識に過ごしています。この状態は、自分は生活できているにもかかわらず、自分が何をもって生活できているか、よくわからないまま生きている、ということです。この状態で人間が心の内に「生きている充実感」をもつことは、ごまかしなしには不可能です。この世には酩酊を約束する酒があり、歌や踊りを見せる歌手やダンサーが居ます。拍手喝采して楽しませてくれるスポーツ選手が居ます。そうした業種が存在するのは、その空隙をひと時忘れて、生きる感覚の欠落をわたしたちがごまかすためなのです。

人間は動物の一種です。野生の動物は、自分が食べるものを、それが生きている状態で自身の目前に認識し、食べています。あるいは自分がもつ感覚でにおいをかぎ分けて、食べています。彼らは、自分が何を食べて生きているか、具体的に自分の感覚で認識して生きています。それが彼らの生活です。彼らは生活に必要なすべてを、十全に認識して、生きていると言えます。
都会生活を送るたいがいの人は、肉切れを、あるいは魚の切り身を、それが生きているところを見ることもなく、皿からつまんで食べて、生きています。それを人間らしいことだと思って、満足しようと、わざとらしい笑みを浮かべます。野菜にしても、ほとんど同じです。やはりそれが生きていたときを知って食べていることはまれです。だれもが知るとおり、人間を含め、動物は他種の生物を食べることで必要な栄養を得て、はじめて生きることができる生き物です。つまり生活の第一の必要が、他種の生物の捕食です。動物としては、その現場に居て、その認識を常にもつことが、自分の生死を、直接的に理解させるもとになります。都会生活を送るわたしたちは、捕殺の場に居ることが十分にできないことで、生きるための十分な認識が不足した状態に、日々、陥っているのです。
とはいえ、特別な日に、特別にそれを自ら認識しておけばいいか、と言えば、それは違います。どの食事のどの食材に関しても、食事ごとに、動物には、その認識が必要です。身体能力も、その日常を通して、餌食とするものの捕殺に十分なものに育ちます。自分の身体が自分を養うために必要な能力を備えると同時に、心が身体感覚を通して、日常的に、生死の現場に身をさらしている、そういう現実の自分の生を認識することが必要です。それがなければ、生きていることを充実したものにする認識は、十分なものにはなりません。
野生の動物は、どれも自分が食べるものを、自分で捕殺します。他者の捕殺に頼るのは、子供の時だけです。かれらは、生きている状態の相手を見ています。それを自分が自分の身体器官で殺すときを見ています。同時に、殺される側の死に、おのれの身体において共感しています。その肉を切り裂いて食べるときに、生を奪う悲しみと、生を得る喜びと、口に広がる苦みとうまみと、生と死のにおいと、食べたあとに体にみなぎる力を覚え、その他さまざまな感覚を、野生の動物はおのれの身体を通して、まさに現場で受け取っています。そして同時に、さまざまな感覚を受け取る力を、そのときどきに養っています。それは、それを身をもって行っている動物にとって、疑いようもない現実です。

こうして生きることの悲しみも喜びも、ますます深く、充実したものとなり、どの動物も、それぞれに生きることを知りつつ生きている日常をもちます。そこには生きて行くうえで必要な感覚の欠如はありません。
そして野生の動物にその欠如がないのは、彼らの生活が、自分の種に必要な食べものを自分で直接に捕食して、どの個体も、そのために必要な認識を現場ですべて実際に得ているからです。わたしたちの分業体制は、それを不可能にしています。そして自分の仕事のことだけは、ほかの人間より知っていることを自慢にして、悲しいことにわたしたちは、生きてゆくために大事なことを知ることなく過ごす自分を、「これが人間らしい生活だ」と、おのれに対して弁護し、さらに自慢げに、自分たちは他の動物とは違ってたくさんのことを知っているのだと、心の内で思っているのです。しかしたいていの場合、その知識は、自分の生とは何のつながりもない無意味な知識なのです。
野生の動物は、人間のように分業体制の社会のなかに生きていません。必要なことをみな自分でしているので、自分のしたことを他者がしたことと交換する必要はありません。そのため、彼らの生活には、金銭の必要はありません。金銭のために起こる貧富の差が、彼らの間にはありません。その意味で、野生の動物は、みな、貧しいものであり、自分の生死を神のものとして生きています。すなわち、彼らは、イエスによれば、天の国に生きているものたちなのです。
以上のことから、イエスが言う「貧しいが幸福なもの」とは、どういう人であるか、いくらか見えて来たでしょうか。

21.付け加えて

 これまでの説明を読んでも、分かったような、分からないような、と読者が思うのは、すでに述べたように、これが「分かる」ためには、ヨハネやイエスに依れば、「悔い改め」が必要だからです。悔い改めが無い人は、神が与えた正しい生き方を捨てたことが原因で繰り返している自分の罪(神から見た悪、不正)に気付くことがありません。自分の心の罪に気付くことが出来る能力を、心が失っているのです。そのため、気付かぬうちに罪を重ねている人間です。そういう人は、神の居る国に居る人ではありません。天の国の人から見れば、相変わらずその人は「異邦人」です。
違う国、違う文化に棲む人を理解することは、むずかしいものです。分業体制の内に生を得ている人間にとって、天の国の人が見ている世界は、異邦人の世界であり、異文化の世界なのです。そのために、イエスの言っていることは、私たちの生活のなかでは、どうしても理解できないものが残ります。しかし、繰り返しますが、理解するために必要な悔い改めは、残念ながら、ことばがもつ力の限界を超えていて、うまく説明できないものです。
ですから、何かのきっかけで「あなたに」奇跡が起きて、「悔い改めが分かる」ことが起きるまで、イエスが説明している天の国の住人がどういう人か、という説明は、今は聞き置くだけで、とりあえず我慢してもらうしかありません。とにかく、ここでは悔い改めの結果として生じる心の世界を説明していくことしか、事実上、できないのです。そしてそれが、イエスが弟子に行った説明を、わたしが哲学の道で説明しようとしていることがもつ矛盾なのです。

 その説明をできるだけ有効なものにしておきたいと思います。少し前に、特別に「いのち」と平仮名で表現したことがらについて、追加の説明をしておきたいと思います。この「いのち」は、すべての生物にあるものです。決して人間だけにあるものではありません。ですから、「いのち」は、人間だれしも持っていて、認識対象としては自分の心の奥底にあるものだとしても、人間だけのものではありません。したがって、人間だけがおそらくもっている「自己の意識」とは違います。ほかの動物には、いわゆる「自己意識」はないと思われます。ただ、自分に気付くことは、動物にも起こります。しかしそれは「意識」と言えるような、一定程度存続する心の状態ではありません。「気付く」ことは、一瞬のことだからです。
「自己意識」は、むしろ分業体制の中に棲む人間が、その生活のなかで自分を肯定するために無意識のうちにつくっている「自己の姿」(幻)に過ぎません。そしてそれが何よりも自分のなかにある「いのち」を歪めています。周囲に起こる、あるいは、自分の身体の内に起こる、さまざまな事実に気付く力が、「いのち」が本来、もつ力です。意識は、この「いのち」がもつ本当の力に蓋をして、殺してしまっているのです。
 その証拠に、自己意識を強く持つ人は、多くの場合、自分は「人間だ」、「動物じゃない」、「彼らよりは疑いようもなく、自分はすぐれている」と、繰り返し考えます。そして動物を「自分が、かわいがっている」と思い、あるいは、「自分が、養っている」と思い、動物の「いのち」に敬意をもって接することができないものです。
 しかしすでに述べたように、その「いのち」は、神がすべての生物を、「生きている」ものとするときに、与えているものであり、どれも同じものです。人間の「いのち」も、動物の「いのち」も、植物の「いのち」も、細菌の「いのち」も、まったく同じものです。違って見えるのは、その「いのち」が駆動している形態とその機能に過ぎません。それらがどんなに違い、互いにぶつかり合うものであろうと、それを動かしている根源としての「いのち」は同じものです。それが同じものだからこそ、一つの惑星のうえで、多種多様な生き物が実際に一緒に生きている(共生して生態系をつくっている)ことができるのです。そしてその生態系の中から、「いのち」が様々な形態の「いのち」に気付くことで、新たな種類が生長し、新たな生態系が生まれるのです。

 この点から見れば、地球上の自然生態系を破壊している元凶は、人間がもつ「自己意識」だとも言えます。それが自然生態系を維持するために神が与えた「いのち」の力を止めてしまっている、と言うことができるからです。
 哲学用語を使うなら、この「いのち」こそ、生物の基にある「真実在」、「実体」、ギリシア語で言えば「ウーシア」なのです。わたしたちの認識対象としては、心の奥底にある、心のウーシアです。ただし、それは心が主体的に動き出す「主体そのもの」ですから、自分の認識の「対象」とすることはできません。対象にできないために、それについては「ことば」(文)の説明が作れません。ソクラテスに言わせれば、それは、「それが在ることに気付くことができる」だけです。それが説明できないことは、つねに明らかです。じっさい、わたしたちは、或るものが「生きている」ことには「気付く」ことができても、「生きている」ことそれ自体を説明することはできません。
 言うまでもなく、この「いのち」に気付くことが、もっとも大事です。あるいは、わたしたちがもつ認識のうちでは、「知っている」ことよりも、「気付いている」ことのほうが大事です。ソクラテスの「無知の自覚」も、「気付き」であって、「知識」ではありません。知識ではなく「気付く」ことのほうが、「いのち」と親和性があります。ほかの動物たちは、「知識」は全くもっていないと思われますが、「気付くこと」は、つねに行っています。彼らはつねに、何かに「気付いて」生きているのです。そしてそれが天の国に棲むものの生き方です。ですから、「気付く」ことのほうが神に与えられた「いのち」だとすら言えます。この二つには親和性があるのです。したがって、「いのち」で「生きる」とは、「知識」で「生きる」ことではなく、「気付く」ことで「生きる」ことだと言えます。

 じっさい、「知識」は、分業体制のうちに暮らす人間が誇っている認識です。「知識」によって人間は、一人ひとりが別々の分野の専門家となり、集団の力で効率的に「世界の支配者」になれることを確信して、それを人類の誇りだと思っています。しかしそれは分業体制によって歪められた人間の浅はかな認識に過ぎません。本当は各自が世界の「部分」のみ知るのではなく、「いのち」に気付いて世界の「全体」と親和して生きることが、正しい生き方、真の生き方なのです。イエスが勧めている「天の国に生きる人」とは、それができる人のことなのです。

 


2024年2月14日 3時04分07秒 (Wed)

キリストの教え 9

キリストの教え 9

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18.イエスの教えの探求へ

 イエスが話したことをパウロの信仰と混同しないように探求するためには、イエスが育った時代と環境について見ておく必要があります。というのも人間は、自分が育った環境の中で言語を身に付け、いろいろなことを知って育つからです。イエスは、エルサレムの市内に育った人ではありません。またその近くで育った人でもありません。むしろエルサレムからは遠いナザレという小村に生まれました。そこはユダヤの一部とはいえ、ギリシア語圏に近縁の土地でした。「ガリラヤ」と呼ばれ、まさに預言者イザヤによって「異邦人の土地」と呼ばれていたところだと、マタイ福音書(4‐15)にも紹介されています。
 したがって、イエスは当時一般民衆の使っていたアラム語で育った人でしたが、おそらく当時そのあたりで使われていたコイネーと言われるギリシア語を子供のころから耳にして、解していたに違いありません。そしてギリシア語圏は、イエスが生まれる四〇〇年前に亡くなったソクラテスの哲学が、すでに知れ渡っていました。じっさいソクラテスの弟子が起こしたキュニコス学派の哲学者が、ナザレから遠くないところで活動していたと言われています。

 イエスの言動から見て、彼がイスラエルの人間であることにこだわりがあった可能性はあります。イエスは「わたしは、イスラエルの家の迷える羊のところにだけ、遣わされているのだ」(マタイ15-24)と言っているからです。しかし、知的な関心の向かうところは、ユダヤ教圏内に限らなかったに違いありません。イエスが若い頃にギリシア的な知恵に接して深い思索をもったことは、十分にありうることだと思われます。

 地方出身のイエスの生活は、当初から素朴なものだったことは、おそらく確かなことです。そしてソクラテスも、「奴隷でも逃げ出す」と人に言われるほど貧乏な生活を平気でしていた人でした。年中裸足、年中同じ服装、ふろにも入らない生活をしていながら、ソクラテスの話は、つねに敬意をもって多くの人に聞かれていました。ですから田舎暮らしのイエスが当時伝えられていたソクラテスの会話を、相当な興味をもって聞いたことは十分にありうることです。
 自分と同じような貧相な生活のなかで真理を探究して七〇歳まで生きたソクラテスの会話に、若いイエスが興味をもたないはずがありません。イエスはヨハネの噂を聞く前に、まずソクラテスの哲学に接していたと思われるのです。

 たとえば、ソクラテスと言えば「無知の自覚」の教えが頭に浮かびますが、その具体的内容は、「善美なことについて、私は知らないから、その通りに、知らないと思う」だと、彼は弁明の場で言っています(21d)。イエスも、善いことについて或る青年に尋ねられたとき、「なぜ、善いことについてわたしに尋ねるのか。善いかたは神一人だけである」と答えています(マルコ10‐12、ルカ19)。つまりイエスも「善いことは、わたしは知らない」と言っているのです。善いことについてのこのような話は、旧約聖書には、関連していそうな箇所はありません。洗礼者ヨハネの教えにも含まれていません。イエスの話は、よく旧約時代の預言の成就として解釈されますが、「善い事を知らない」については、それでは解釈できないのです。やはりイエスはソクラテスの会話からも多くを学んでいると考えたほうが、自然に納得できるのです。

 イエスは、ヨハネが捕まって殺されたことを聞いて逃げたと、すでに述べました。逃げた先は「ガリラヤ」でした。そこに「しばらくとどまった」と言われています。ギリシア語が話されていたところにしばらく居たことで、イエスは自分が若い頃、伝えられたソクラテスの会話に夢中になっていたことを思い出し、再度、ヨハネの教えと合わせて、神の教えの内容を十分に吟味したのはないでしょうか。きっとそうであるに違いありません。ソクラテスは、当時ソフィストと呼ばれた学者教師たちとは異なり、だれにでも分かる話し方をしたと言われています。むずかしい専門用語を使わなかったのです。ですからイエスも、だれもが分かることばで神の教えを説明できるように、「ソクラテスにならって」ことばを探したに違いありません。彼が後に弟子に語った数々のたとえ話は、そうしてできたものなのではないでしょうか。
 じっさい、イエスの弟子が、あるときイエスに尋ねたと、福音書にあります。「なぜたとえ話であの人たちにお話しになるのですか」(マタイ13-10)。福音書は、そのあとにイザヤの預言を紹介しています。「あなたがたは聞くには聞くが、まったく悟らない。見るには見るが、まったく認めない。この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、目は閉じてしまっている」(同書13-14‐5)。福音書はイエスの誕生を旧約時代の預言の成就として説明しようとしているので、「だれにも分かるように」という答えをイエスがしたことにはしていません。とはいえ、イエスが説明し難いことを、なんとか分かりやすいことばで説明しようとしたことは、弟子たちの質問から察せられます。

 ところで、「ソクラテスにならう」とは、哲学の道を取ることです。『弁明』(28e-29a)によれば、ソクラテスも、デルポイの神託を「哲学した」(ことばを吟味した)ことによって、神が自分をその後の活動(自他の知の吟味)に招聘したのだと、理解しました。すなわち、「ソクラテスより知恵のある者は居ない」という巫女を通じた神託を、自分が神に奉仕するように、という「神の導き」、あるいは、「神からの命令」だと、ソクラテスは哲学を通してはじめて理解したのです。もっとも知恵があると、ソクラテスは巫女を通じて、神から褒められました。彼がその知恵(哲学)を大いに社会の中で発揮することが、自分が神から受けた使命だと考えるのは、ごく自然なことでしょう。
 ですからイエスの教えの根本に迫るために哲学の道を取ることは、ソクラテスのことを考えれば、不当なことではないのです。

19.「心の貧しいものは幸いである」

 哲学の道をたどってイエスの教えを見出すことにしましょう。
「心の貧しいものは幸いである」は、イエスが行った「山上の垂訓」と銘打たれた箇条書きになった教えの最初の一句です(マタイ5-3)。「天の国はその人に属しているのだから」ということばがすぐ後に続いています。
 後続のことばは、「心の貧しい」その人が「幸いである」ことの理由を述べています。次のような推論です。「真の幸福があるところは、天の国であるから、幸福な人は、幸福であるかぎりで天の国に居る、ところで、心の貧しい人は幸福な人である、ゆえに、心の貧しい人は天の国に居る」。つまり天の国は、居心地のいいところであるとか、きれいなものに囲まれたところだとか、宝物がたくさんあってお金に困らないところだとか、何かそういう目に見える国だということではありません。じっさいイエスは、天の国がどんなところか、何も言っていません。天の国では何が見えるか、何が聞こえるか、何が匂うか、そういう感覚的なことには左右されずに、たんに「幸福である」ことが、「天の国に居る」ことだと、イエスは述べているのです。

 

 したがって、イエスは、たとえ不快なものが見えても、不快な音が聞こえても、あるいは、不快なにおいにさらされても、そういうことには無関係に、「真に幸福な人は、天の国に居る」と言っているのです。
 他方、ルカ福音書では「心の」に当たることばがありません。「心の」は、ギリシア語では「プネウマにおいて」となっています。プネウマは「気息」、「霊」という目に見えない心のはたらきを指しています。しかし前述のように、幸福であることは明らかに「心の」状態です。それは幸福な人が居ると言う天の国が、五感でとらえられる天国のイメージではないことから明らかです。ですから、「心の」は、むしろ「幸いである」ことが起きている「心」という場所を述べています。そう見れば、納得がいくことばになります。したがって、「心の貧しいものは幸いである」ということばの意味は、「貧しいものは、その心が幸福である」と理解すればよいはずです。そう考えれば、分かることばになります。

 問題は、「貧しいもの」が、どんな人を指しているかです。なぜ「貧しいもの」は、「貧しいがゆえに心が幸福である」ことができるのか。これが分からなければ、やはり一句全体の意味は理解できません。じっさい、通常は、貧しい人というのは、お金に余裕がない人を言います。しかしそうだとしたら、その人はお金に「困っている」のですから、「ゆえに心が幸福である」というのは、矛盾しています。
 

 しかしわたしたちは、イエスが金銭に関連して「皇帝のものは皇帝に返せ」と教えていたことを知っています。そしてその意味は、社会の分業体制から「離れる」ことが、神のもとに帰るために必要だと教えているのを、すでに見出しています。じっさい、それこそが「神のものは神に返せ」という教えだと、わたしたちは理解しました。ところで分業体制は、その間を金銭が流れることによって成り立つ体制です。分業のなかで一つの仕事の生産物を、他の人がしている仕事の生産物と交換することを可能にするために金銭が流れています。どのような生産をする仕事を担当しているかに依って、金銭の受け渡しの量は違います。その違いが競争を生み、市場経済を活性化し、分業体制を成り立たせています。そこから、いつのまにか金持ちと貧乏人の階級が、生まれてきます。
 イエスが言う「貧しいもの」とは、はたしてこの体制のなかで生まれている金銭の量に関する貧乏人のことでしょうか。しかし、金銭に関連してわたしたちが見出したイエスの教えは、この体制から離れなければ神のもとに帰れないという教えでした。そして天の国とは、神のもとにある国です。したがって、幸福な人は、この体制から離れた人でなければなりません。ところで、金銭が流れている体制から離れれば、そこには「金銭は無い」のですから、そこに居る人間は、やはり金銭が欠乏している意味で、貧しい状態です。金銭が存在しないところでは、お金持ちはありえません。
たとえばソクラテスは、この意味での「貧乏人」でした。彼は、クセノポンの『思い出』に出ているようすからすると、毎日無料で人々の人生相談に乗っていたようです。相談を持ち掛けられたソクラテスは、持ちかけられた内容によって、自分の人生経験にもとづいて、また、きわめて厳格にことばを吟味する作業を通して、相手に最善の道を示しました。そして彼自身は、それによってたしかに「幸福」であったし、なおかつ、他者を「幸福」にしたと言っています(36d)。

 

 では、心が幸福な状態にあるとは、どういう状態でしょうか。これまでのイエスの言い方で言えば、「神のもの」である自分の生死を、自分の意のままにしようとする状態をやめて、それを神にまかせている心の状態です。生きるか死ぬかについては自分が心配し、配慮することではないと納得し、すっかりあきらめて、安心している状態です。
 では、積極的には何も考えず、何もしないでいることが、幸福なことでしょうか。イエスは、天の国に生きることを思い、正しいことをすることを考え、正しいことを実行する生活が、心が幸福な生活であると言います。野の鳥のように、生きて行けるかどうかは心配せず、ただ正しいことを実行する生活を求めなさいと、イエスは言っています。
 「空の鳥を見なさい。種をまくことも刈り入れることもせず、また蔵に収めることもしない。それなのに天の父はこれを養ってくださる。・・・あなたがたのうち、だれが思い煩ったからといって寿命を一刻でも延ばすことができるだろうか。・・・。まず天の国と、その義を行う生活を求めなさい。・・・明日のことは、明日思い煩えばいい」(マタイ6-26、27、33、34)
同じところで、「天の国の住人ではないものたち(異邦人)は、何を食べ、何を飲もうか、何を着ようかと思い煩い、それを切に求めている」と言われています(マタイ6-31‐2)。分業体制の社会の中で生きるために、わたしたちは、食べ物、飲み物、着るものを求めます。それらを得るために、はたらきます。イエスは、その生活はわたしたちが天の国の住人ではない、つまり神を信ずる民ではない証拠だと言っているのです。わたしたちが生きるのは、わたしたちが「いのち」を分け持っているからですが、その「いのち」は、神がわたしたちに貸し与えているものであり、いぜんとして「神のもの」だというわけです。決して「すでにわたしがもらったものだから、もうそれはわたしたちのもの」ということではないと、言うのです。
わたしたちが現に生きている分業体制の社会では、他者からもらったものは、つねに自分のものです。分業体制は、必要に応じて所有権を移すことができることによって成り立つ体制だからです。その中に居れば、「もらったもの」が「自分のものではない」というのは、理解できないことがらになります。しかしイエスは、それは間違いだと言うのです。

 

 そして先に揚げた引用文からも分かるように、このことは空を飛ぶ鳥たちと一緒だと言います。別の箇所(マタイ6‐28)を見れば、「野のユリ」も同じです。「野のユリがどのように育つかをよく見なさい。骨折ることも、紡ぐこともしない」と言っています。ですから、イエスに依れば、わたしたちの「いのち」は、周囲に見られる動物や植物の「いのち」と同じく、初めから最後まで、まったく「神のもの」なのです。神にまかせておけば、育ち、生きていくものなのです。「自分のもの」だと思っても、自由に、思い通りに、寿命を延ばすことができることはありません。
 言うまでもなく、分業体制の人々の間には、病気を治す医者も病人の看護者も、生きることを楽しませてくれる歌手や噺家も居ます。その生活は、もらったいのちを「自分の所有」と見て、自分のものとして思い煩い、あるいは、ときに楽しみを与えてくれるエンターテナーを得て、快楽のままに、生きることができる生活です。少なくとも、元気でいる限り、その気でいられます。自分の命は、金銭の力で自分の思いのままになっているような気がします。しかし、イエスに依れば、それは現実ではないのです。少なくとも、それが現実ではないことは、寿命を思いのままにできないことで明らかだと言います。

 


2024年2月14日 2時52分51秒 (Wed)

キリストの教え 8

キリストの教え 8

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16.哲学の道による理解

 
 わたしたちはパウロの説得に従うべきでしょうか。わたしは、かならずしもみなが、ではないと思います。それはキリスト教会に入るか入らないかの違いでもあります。言うまでもなく、おのれの愚かしさを自覚して教会に入る道を選ぶのも、反対に、その道を選ぶことにむしろ不安や不満を懐いてしまい、納得がいくまで自分で考える道を選ぶのも、人間の自由です。だれもがこの自由をもっています。他者の自由を、だれもが尊重しなければ、互いの自由は守られません。これは人権を尊重することであり、また信教に関して保証された自由です。

 哲学の道は、ことばを吟味する道です。この道をたどると、すでに述べたように、パウロの説く物語、彼が持ち出す信ずべき事実には、飛躍があり、その物語は突飛であることが明らかです。それを明らかにする道、ことばを吟味する道は、じっくりとことばの論理をたどる道です。たとえて言えば、ほかに車も人も全く見えない遠くまで舗装された道を、しっかりと制限速度を守り、同時に左右に目を配りながら車を運転するようなものです。見方によっては、これも愚かしい進み方です。だれにも迷惑を掛けない、車の制御能力も十分なら、スピードを出して目的地に着くほうが車を利用する意味があるではないか、と考えるのがふつうです。警察の監視も何もないにもかかわらず、それでもルールを守って道を行くことは、はたから見れば、たしかに愚かしい運転です。しかし、この姿勢でことばを吟味すると、パウロの言うことは、ことばの正しい道のりをたどっていないのです。

 わたしは、これから哲学の道をたどります。この道を着実にたどってイエスの教えを理解することは、その教えを本当の意味で尊ぶことになると、信じるからです。

17.「悔い改め」の意味

 イエスが、当時預言者の噂が絶えなかったヨハネから受け取った教えは、「悔い改め」(メタノイア)でした。「メタノイア」というギリシア語の意味自体は、「あとで気付く」、「あとで考える」という程度の意味しか持ちませんが、聖書では「悔い改め」と訳されます。しかしこのように訳されることには正当な理由があります。
「マタイ福音書」(3-2)で上の語が出ている文面のすぐあとに、同じことを「自分の数々の罪を自ら認める、自ら告白する」(3-6)ということばがあるからです。つまりこれが「悔やむ」ことの内容です。そしてそのあとに、さらに、「それにふさわしい実を結べ」(3-8 )と言っています。つまり悔やんだら、その結果も示せ、と言うのです。結果を示すというのが訳文の「改める」ということばに凝縮されています。
ですから、「メタノイア」は、「あとで気付く」よりも、「悔い改め」と訳されたほうがたしかにふさわしいのです。

 さらにヨハネは、悔いの結果として「我々の父はアブラハムだと、心の中で思ってはならない」と言っています(3‐9)。すなわち、悔いの結果は「心の中の思い」に出ると言っているのです。ということは、何が「悔い」の結果改まるかと言えば、明らかに「心の中の思い」です。その思いは言動となってさらに体外の表に出るものですが、直接的にはあくまでも人の目につかない「心の中」にあるもの、「心の動き」です。ふだんは隠されています。見せてもいいと思える人にだけ、見せるし、聞かせてもいいと思える人にだけ、口にする内容です。つまり悔いの結果は心の内に現れなければならないのですが、ただ、それは他者の目にも耳にも触れることはありません。つまりヨハネが「自分はアブラハムの子孫だと思ってはならない」と言っても、ヨハネの前で悔いて見せた人間が、本当にそういうことを心の内で思わないかどうか、それは、結局、当人にしか分かりません。

 それはともかく、悔いた結果、その心に思う内容が「正しい」ものになっていなければなりません。「我々の父はアブラハムだという思いは、悔い改めたなら、もってはならない」と、ヨハネは言っているわけです。「それは悔い改めたらもつはずの正しい思い」ではないから「もってはならない」と、彼は言うのです。アブラハムという人物は、神の声を聴いてユダヤ民族をメソポタミアの町から連れ出した最初の族長です。そのアブラハムを「自分の父祖」と見る人は、その人が民族主義的偏見を懐いていることを意味しています。アブラハムを自分の父祖と見ることが出来ない人たちを、明らかに差別することばです。すなわちヨハネは、そういう偏見を懐くような心を改めなければならないと言っていたのです。

 そして、そのように、これまで偏見に執していた心が改まって「正しい心」になるという結果が出るようでなければ、その人の罪の告白(悔い)は、自分が教えている「悔い改め」になっていない、と言うのです。きちんと「良い結果」が出ないことが分かれば、その原因の「悔い改め」がきちんと、正しくされていないことが分かる、と言うのです。原因が正しく原因になっているかどうかは、その結果が証明している、という理屈です。言い換えればヨハネは、自分の罪を自ら気付いて告白することを、ごまかしなしに、実際に、確実に、しなければだめだ、と言うのです。告白(悔いること)を嘘にしてはならないと言うのです。

 以上のことから分かることですが、イエスがヨハネから受け継いだ「悔い改め」の教えは、心の中の教えであって、心の外に見えることがらの教えではありません。そしてわたしが見るところ、四つの福音書に見られるイエスの教えの断片の数々は、まさに「悔い改めの結果として現れるべき心のはたらき」を示しています。つまり正しく「悔い改め」をするための教えではなく、もしも正しく悔い改めることができたなら、もつことができるはずの「正しい心」を語る教えなのです。つまり結果だけが語られています。どうすれば本当に悔い改めることができるかは、イエスの教え(「福音書」)には語られていません。

 すなわち、福音書に伝えられたイエスの教えの理解がわたしたちにとってむずかしい理由は、それが、自分が実際に悔い改めた経験がなければ理解できない内容だからです。本当の悔い改めに至らず、苦悩するままの心には、イエスの言う結果のすばらしさは、決して自分のものになりません。むしろ、教えられた通りであれば天国に行ける、というイエスのことばが、理解しがたいはずです。すでに述べたように、パウロも、イエスの言っていることを理解できていません。パウロの物語を信じてキリスト教徒になった人も、福音書に記されたイエスの教えは、結局は遠く離れた憧れの対象に過ぎないことを納得するほかないのです。

 しかしこのようなことは、仏教哲学でも同じです。仏教の経典が描くことは、たとえば「空」(くう)の心とか、「無我」の心とか、どれも悟ったならば分かることがらであって、悟らない人間に分かることがらではありません。しかし人間が悟るためには、どうすればいいか、どの道をどうたどればいいか、その道筋を経典は描いていません。つまりキリスト教福音書と仏教経典の理解のむずかしさは、じつは同じことに起因しているのです。イエスの教える信仰も、釈尊の教える信仰も、信仰を得た正しい結果は、比喩を用いたりしてことばにすることがかろうじてできるけれど、そこに至る道筋は、ことばにすることがむずかしい、むしろまったくできていない、ということなのです。
じつは、このことは、ソクラテスの哲学でも同じです。ソクラテスの哲学は、ヨーロッパの哲学の一つに数えられていますが、古代においては一種の宗教と見られていました。彼の哲学は、宗教臭を払拭されたかたちでプラトンに依って伝えられたために、また当時の俗化したギリシア宗教やキリスト教に覆い隠されて伝えられたために、今では全くの「哲学」として一般に受け取られています。しかし彼自身のことばを伝えている『弁明』を読めばわかりますが、彼の哲学の目覚めは、デルポイの巫女を通じた神託によっています。「神託」は、神のことばですから、聖書に書かれた神の預言と同じ類です。

 また「弁明」という作品に伝えられた彼の裁判時のことばを読み直してみると、晩年には自分の哲学の核心にあるものが「宗教」であることを、彼自身は隠さなかったようです。『弁明』のなかで、彼は自分がしていることは「神への奉仕」であると言い(23c)、自分は「神から贈られたもの」(31b)とまで言っています。さらに「神から遣わされた」(31a)となれば、ユダヤ教の用語を使えば、ソクラテスは自分で「わたしは預言者だ」と言っていることに等しいのです。
しかも弁明を始めたところで、彼は「善い結果」が出るように、神に祈っています。その時に彼が人々を前にした場で何度か口にした祈りのことばがあります。それは、一般に目にする『ソクラテスの弁明』の現代語訳では無意味な接続詞に訳され、隠されていますが、「神の意思の(=ものごとが神に在らしめられる)ままに」を意味する「エイエン」というギリシア語なのです。そしてじつは、キリスト教に祈りのことばとして伝わっている「アーメン」というヘブライ語も、福音書のイエスのことばのところでは、「まことに」とか、「よく言っておく」とか、「よく聞きなさい」と訳されていますが、本来は、「神のなされるままに」という意味なのです。明らかにソクラテスとイエスは、類似の祈りのことばをもっていたのです。これには何らかの理由があるはずですが、その推測はここでの論題から外れるので、ここではしません。
 
 そしてソクラテスが人々に実際に話していたことは、クセノフォンの『思い出』にあるように、たいがいは誰にでもわかりやすい内容でした。しかし「無知の自覚」という究極のこととなると、やはり理解のむずかしい内容なのです。ソクラテスも、それを口にしたのは彼の人生最期となる裁判の弁明の場に至って、どうやらはじめてだったように見受けられます。イエスや釈尊の教えと同じように、肝心なところは、ソクラテスの哲学も、理解しがたいものとなっています。

したがって、ヨハネもイエスも、わかっているのに肝心なこと、すなわち、どうすれば心を改める結果が得られる本当の悔いができるか、それは教えていないのです。教えたくない、ということではありません。決して意地悪で教えないのではありません。それは、だれがどんなにがんばっても、わかりやすいことばにできないものだから、誰に対してであれ、言えないのです。

 


「キリスト教の教え」 八木雄二

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