キリスト教の教え 10

2024年3月17日 19時05分00秒 (Sun)

キリストの教え 10

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20.分業体制の日々が見失うもの

イエスには、分業体制の中にあって、そのことに疑問を持たずに居る人たちが、本当のところ、どうなのかが見えています。決して、本当の意味で幸福ではありません。とりあえず「このいのち」が自分のところに在るから自分は現に生きている、だからそれは自分のものだと、疑問も持たずに生きる人は、まったく天の国以外の国に生きる人だと、イエスは言うのです。言うまでもなく、そういう人は、生きてはいるのです。ただ、「幸福な状態」で生きてはいないのです。すでに述べたように、天の国に生きる人が、イエスに依れば幸福な人です。ですから、イエスに依れば、分業体制という、天の国にはない社会の体制うちに現に生きている人はみな、「不幸な人」なのです。
分業体制の中で自分の仕事と言えるものを見つけた人は、その仕事に生きがいを見つけたと言います。毎日、生きがいのある仕事に打ち込み、欲しいものが手に入るだけの収入がある生活が、そこにはあります。それが幸福というものだろうと、多くの人は考えています。しかし、そうは言っても、分業体制の中で、そのような仕事を見つけ、従事できる人は、あくまでも一部です。全員ではありません。しかも、そういう人であっても、一生、そのまま過ごせるとは限りません。いつどんな災いが生じるかわかりません。また生きがいのある仕事を中途であきらめなければならない羽目に陥ることは、十分にありえます。そしてそのときは、そこまでは考えていなかったと、やはり悔やむのが日常です。人はいつか死ぬものですから、そのような悔いは、必ずやってくると言えます。
それに対して、イエスが言う分業体制と無関係な「幸福」は、壊されることのない幸福です。死によっても、壊されません。なぜなら、自分の生死を神に預けているとき、心は身体の生死を超越したところにあるからです。
不幸な生き方をしている、というのは、よく生きていない、充実した生き方をしていない、真実に生きているとは言えない、そういう生き方をしている、ということです。分業体制の社会に生きている人が不幸だと言われるのは、分業体制のうちに生きることは、特定の限られた仕事にかかわって日々の大半を過ごすからです。ほかの仕事はほかの人に任せ、互いに自分の生活のために必要なものとその量を、お金で交換すればいい、と思って暮らしています。しかしこれだと、自分が生きて行くために必要な全体を自分でまかなうことがありません。すると、自然、自分が日常的に見知ることが、自分が生きて行くために必要な全部ではなく、ごく一部でしかない、ということになります。

わたしたちの人生が充実するためには、心の充実が不可欠です。むしろ身体的欲求よりも、心の必要を満たすことのほうが、人生の充実のためには優先度が高いものです。なぜなら、人生の充実感を受け取るのは、心を通してですから。胃の充足感は身体を通してです。しかし心が働いて、はじめて心が、「自分が生きている」と実感するのですから、心の満足感抜きには人生は充実しません。これは他人がどう言おうと、関係ありません。他者から、「あなたの人生はとても充実していた」と言われても、自分に充実感がなければ、他人の評価は心に響きません。自分が「充実していた」と思えなければならないのです。そして、反対に、むしろ人生の充実感には、自分の心の充実感だけで十分です。他人の評価は不要です。
ところで、心は自分自身とそれ以外の世界を認識します。それがまず心の基本的はたらきです。そのはたらきを前提にして、心はつぎに、ではどのように行為するかと考え、判断します。そして実際行動が生まれ、その結果を認識します。この一連の心のはたらきが、日常、不断に行われています。必ずしも、意識的ではありません。もともとわたしたちの意識は、一歩遅れるものです。意識されるものは、一歩遅れて心が反省するなかで現れてくるものです。ほとんど無意識にわたしたちは知ったことから推論し、判断して、行動にまで移しています。
さて、分業体制の日常においては、一個の人間の生活に必要な作業を一個の人間がすべて行うのではなく、みなで分担します。したがって、この社会のなかでの日常において人が認識するものは、自分が生きて行くために必要な認識のすべてではなく、一部に過ぎません。なぜなら、一部の生産現場しか知るすべがないからです。言い換えると、わたしたちは自分が生きる上で必要な多くの部分の認識が欠けた状態で、それについて無意識に過ごしています。この状態は、自分は生活できているにもかかわらず、自分が何をもって生活できているか、よくわからないまま生きている、ということです。この状態で人間が心の内に「生きている充実感」をもつことは、ごまかしなしには不可能です。この世には酩酊を約束する酒があり、歌や踊りを見せる歌手やダンサーが居ます。拍手喝采して楽しませてくれるスポーツ選手が居ます。そうした業種が存在するのは、その空隙をひと時忘れて、生きる感覚の欠落をわたしたちがごまかすためなのです。

人間は動物の一種です。野生の動物は、自分が食べるものを、それが生きている状態で自身の目前に認識し、食べています。あるいは自分がもつ感覚でにおいをかぎ分けて、食べています。彼らは、自分が何を食べて生きているか、具体的に自分の感覚で認識して生きています。それが彼らの生活です。彼らは生活に必要なすべてを、十全に認識して、生きていると言えます。
都会生活を送るたいがいの人は、肉切れを、あるいは魚の切り身を、それが生きているところを見ることもなく、皿からつまんで食べて、生きています。それを人間らしいことだと思って、満足しようと、わざとらしい笑みを浮かべます。野菜にしても、ほとんど同じです。やはりそれが生きていたときを知って食べていることはまれです。だれもが知るとおり、人間を含め、動物は他種の生物を食べることで必要な栄養を得て、はじめて生きることができる生き物です。つまり生活の第一の必要が、他種の生物の捕食です。動物としては、その現場に居て、その認識を常にもつことが、自分の生死を、直接的に理解させるもとになります。都会生活を送るわたしたちは、捕殺の場に居ることが十分にできないことで、生きるための十分な認識が不足した状態に、日々、陥っているのです。
とはいえ、特別な日に、特別にそれを自ら認識しておけばいいか、と言えば、それは違います。どの食事のどの食材に関しても、食事ごとに、動物には、その認識が必要です。身体能力も、その日常を通して、餌食とするものの捕殺に十分なものに育ちます。自分の身体が自分を養うために必要な能力を備えると同時に、心が身体感覚を通して、日常的に、生死の現場に身をさらしている、そういう現実の自分の生を認識することが必要です。それがなければ、生きていることを充実したものにする認識は、十分なものにはなりません。
野生の動物は、どれも自分が食べるものを、自分で捕殺します。他者の捕殺に頼るのは、子供の時だけです。かれらは、生きている状態の相手を見ています。それを自分が自分の身体器官で殺すときを見ています。同時に、殺される側の死に、おのれの身体において共感しています。その肉を切り裂いて食べるときに、生を奪う悲しみと、生を得る喜びと、口に広がる苦みとうまみと、生と死のにおいと、食べたあとに体にみなぎる力を覚え、その他さまざまな感覚を、野生の動物はおのれの身体を通して、まさに現場で受け取っています。そして同時に、さまざまな感覚を受け取る力を、そのときどきに養っています。それは、それを身をもって行っている動物にとって、疑いようもない現実です。

こうして生きることの悲しみも喜びも、ますます深く、充実したものとなり、どの動物も、それぞれに生きることを知りつつ生きている日常をもちます。そこには生きて行くうえで必要な感覚の欠如はありません。
そして野生の動物にその欠如がないのは、彼らの生活が、自分の種に必要な食べものを自分で直接に捕食して、どの個体も、そのために必要な認識を現場ですべて実際に得ているからです。わたしたちの分業体制は、それを不可能にしています。そして自分の仕事のことだけは、ほかの人間より知っていることを自慢にして、悲しいことにわたしたちは、生きてゆくために大事なことを知ることなく過ごす自分を、「これが人間らしい生活だ」と、おのれに対して弁護し、さらに自慢げに、自分たちは他の動物とは違ってたくさんのことを知っているのだと、心の内で思っているのです。しかしたいていの場合、その知識は、自分の生とは何のつながりもない無意味な知識なのです。
野生の動物は、人間のように分業体制の社会のなかに生きていません。必要なことをみな自分でしているので、自分のしたことを他者がしたことと交換する必要はありません。そのため、彼らの生活には、金銭の必要はありません。金銭のために起こる貧富の差が、彼らの間にはありません。その意味で、野生の動物は、みな、貧しいものであり、自分の生死を神のものとして生きています。すなわち、彼らは、イエスによれば、天の国に生きているものたちなのです。
以上のことから、イエスが言う「貧しいが幸福なもの」とは、どういう人であるか、いくらか見えて来たでしょうか。

21.付け加えて

 これまでの説明を読んでも、分かったような、分からないような、と読者が思うのは、すでに述べたように、これが「分かる」ためには、ヨハネやイエスに依れば、「悔い改め」が必要だからです。悔い改めが無い人は、神が与えた正しい生き方を捨てたことが原因で繰り返している自分の罪(神から見た悪、不正)に気付くことがありません。自分の心の罪に気付くことが出来る能力を、心が失っているのです。そのため、気付かぬうちに罪を重ねている人間です。そういう人は、神の居る国に居る人ではありません。天の国の人から見れば、相変わらずその人は「異邦人」です。
違う国、違う文化に棲む人を理解することは、むずかしいものです。分業体制の内に生を得ている人間にとって、天の国の人が見ている世界は、異邦人の世界であり、異文化の世界なのです。そのために、イエスの言っていることは、私たちの生活のなかでは、どうしても理解できないものが残ります。しかし、繰り返しますが、理解するために必要な悔い改めは、残念ながら、ことばがもつ力の限界を超えていて、うまく説明できないものです。
ですから、何かのきっかけで「あなたに」奇跡が起きて、「悔い改めが分かる」ことが起きるまで、イエスが説明している天の国の住人がどういう人か、という説明は、今は聞き置くだけで、とりあえず我慢してもらうしかありません。とにかく、ここでは悔い改めの結果として生じる心の世界を説明していくことしか、事実上、できないのです。そしてそれが、イエスが弟子に行った説明を、わたしが哲学の道で説明しようとしていることがもつ矛盾なのです。

 その説明をできるだけ有効なものにしておきたいと思います。少し前に、特別に「いのち」と平仮名で表現したことがらについて、追加の説明をしておきたいと思います。この「いのち」は、すべての生物にあるものです。決して人間だけにあるものではありません。ですから、「いのち」は、人間だれしも持っていて、認識対象としては自分の心の奥底にあるものだとしても、人間だけのものではありません。したがって、人間だけがおそらくもっている「自己の意識」とは違います。ほかの動物には、いわゆる「自己意識」はないと思われます。ただ、自分に気付くことは、動物にも起こります。しかしそれは「意識」と言えるような、一定程度存続する心の状態ではありません。「気付く」ことは、一瞬のことだからです。
「自己意識」は、むしろ分業体制の中に棲む人間が、その生活のなかで自分を肯定するために無意識のうちにつくっている「自己の姿」(幻)に過ぎません。そしてそれが何よりも自分のなかにある「いのち」を歪めています。周囲に起こる、あるいは、自分の身体の内に起こる、さまざまな事実に気付く力が、「いのち」が本来、もつ力です。意識は、この「いのち」がもつ本当の力に蓋をして、殺してしまっているのです。
 その証拠に、自己意識を強く持つ人は、多くの場合、自分は「人間だ」、「動物じゃない」、「彼らよりは疑いようもなく、自分はすぐれている」と、繰り返し考えます。そして動物を「自分が、かわいがっている」と思い、あるいは、「自分が、養っている」と思い、動物の「いのち」に敬意をもって接することができないものです。
 しかしすでに述べたように、その「いのち」は、神がすべての生物を、「生きている」ものとするときに、与えているものであり、どれも同じものです。人間の「いのち」も、動物の「いのち」も、植物の「いのち」も、細菌の「いのち」も、まったく同じものです。違って見えるのは、その「いのち」が駆動している形態とその機能に過ぎません。それらがどんなに違い、互いにぶつかり合うものであろうと、それを動かしている根源としての「いのち」は同じものです。それが同じものだからこそ、一つの惑星のうえで、多種多様な生き物が実際に一緒に生きている(共生して生態系をつくっている)ことができるのです。そしてその生態系の中から、「いのち」が様々な形態の「いのち」に気付くことで、新たな種類が生長し、新たな生態系が生まれるのです。

 この点から見れば、地球上の自然生態系を破壊している元凶は、人間がもつ「自己意識」だとも言えます。それが自然生態系を維持するために神が与えた「いのち」の力を止めてしまっている、と言うことができるからです。
 哲学用語を使うなら、この「いのち」こそ、生物の基にある「真実在」、「実体」、ギリシア語で言えば「ウーシア」なのです。わたしたちの認識対象としては、心の奥底にある、心のウーシアです。ただし、それは心が主体的に動き出す「主体そのもの」ですから、自分の認識の「対象」とすることはできません。対象にできないために、それについては「ことば」(文)の説明が作れません。ソクラテスに言わせれば、それは、「それが在ることに気付くことができる」だけです。それが説明できないことは、つねに明らかです。じっさい、わたしたちは、或るものが「生きている」ことには「気付く」ことができても、「生きている」ことそれ自体を説明することはできません。
 言うまでもなく、この「いのち」に気付くことが、もっとも大事です。あるいは、わたしたちがもつ認識のうちでは、「知っている」ことよりも、「気付いている」ことのほうが大事です。ソクラテスの「無知の自覚」も、「気付き」であって、「知識」ではありません。知識ではなく「気付く」ことのほうが、「いのち」と親和性があります。ほかの動物たちは、「知識」は全くもっていないと思われますが、「気付くこと」は、つねに行っています。彼らはつねに、何かに「気付いて」生きているのです。そしてそれが天の国に棲むものの生き方です。ですから、「気付く」ことのほうが神に与えられた「いのち」だとすら言えます。この二つには親和性があるのです。したがって、「いのち」で「生きる」とは、「知識」で「生きる」ことではなく、「気付く」ことで「生きる」ことだと言えます。

 じっさい、「知識」は、分業体制のうちに暮らす人間が誇っている認識です。「知識」によって人間は、一人ひとりが別々の分野の専門家となり、集団の力で効率的に「世界の支配者」になれることを確信して、それを人類の誇りだと思っています。しかしそれは分業体制によって歪められた人間の浅はかな認識に過ぎません。本当は各自が世界の「部分」のみ知るのではなく、「いのち」に気付いて世界の「全体」と親和して生きることが、正しい生き方、真の生き方なのです。イエスが勧めている「天の国に生きる人」とは、それができる人のことなのです。

 


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