キリスト教の教え 11

2024年3月17日 19時12分05秒 (Sun)

キリストの教え 11

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24.イエスの十戒理解

イエスは、「十戒」の戒律を守っている人を、次のような人であると考えました。すなわち、その心は、一つの神のみを主(あるじ)と考える心であり、心の内でつねに神を目前にしているので、神の像を造る必要を覚えない心であり、神を身近に覚えているので、神の名をみだりに唱えることのない心であり、生かしてくれている神に感謝しているので、他者のものを決して盗もうと思わない心であり、同様の理由で、決して偽りを考えない心であり、決して人を殺すことを考えない心であり、異性をみだらな思いで見ない心だと、考えていたのです。
まさにこのように心が、心の底から十戒の戒律を守る状態であれば、その人の心は、幸福な心であり、天の国に棲む人だと言われるに値する、というのです。反対に、このような心ではなく、このようなことに反する心をもつ人は、天の国に棲んでいないと、イエスは言うのです。
もしも十戒の内容がそのようなものなら、十戒は神を信ずる心、神との関係を実際に保っている心の在り方を示すものであって、国家社会の秩序を守る法律文ではありません。したがって、本来、十戒には法律がもつような罰則規定は、まったくないのです。ですから「申命記」の細かな罰則規定は、イエスによれば十戒に対する誤解に起因するものです。じっさいもしも十戒が、神が人間に与えたものであり、あなたの心が神を本当に信じているかどうか、神が試すものだとすると、その結果について神がどうするかは、神の考え次第であって、神にまかせなければなりません。したがって十戒の規定に違反したものを、人間が罰することは、神の権利を侵害することです。ですから十戒の規定に違反したものを人間が処罰すれば、処罰した人間のほうが、むしろ神に依って処罰されなければなりません。
神が信仰者に求めた戒律に信者が違反することは、たんに、信者が天の国に棲むことが許されず、天の国から追放されることを意味するだけです。つまり天の国に棲んで神に保護されて暮らすことができずに、人間の分業体制のなかでの苦しみに耐えて暮らしていかなければならない、ということを意味します。
それが神に見放された人間の運命です。見放すことが罰だと言えば、たしかに神が与える罰かもしれません。ただ、正確に言えば、神は「見放して」いる、つまり「相手にしない」だけです。罰を与えることは、その人を相手にして、はじめて行うことができます。神は天の国に棲まない人を「見ない」と言っているので、「神が見つけて罰している」と言うのは、まったく不正確な表現です。
要するに、戒律が表そうとしているのは、イエスに依れば、本物の信仰が実現する心の姿です。言い換えれば、どの戒律が述べていることも自然に守られている心の状態であるとき、そのときだけ、その人は神に認められ、神に見守られた生き方をしています。その人は天の国に招かれた人であり、幸いな人です。イエスに依れば、そのように信じられるのです。

25.十戒の意味

 「申命記」の記述が間違った理解に基づくものだということ、すなわち、十戒が本来は信仰を示すものだということは、また、もとの原文であるヘブライ語が示唆しています。というのも「あなたは~してはならない」と、現代語で禁止命令として訳されているところは、ヘブライ語の文法にしたがえば、「あなたは~しない」とか、「あなたは~しません」と訳したほうが、じつは正確になる文なのです。一般に見る聖書が禁止命令文の現代語訳を示しているのは、たんにそのほうが現代人には分かりやすいからにほかなりません。正確な訳をすれば、わたしがこれまでしてきたような長々とした説明がなければ、本当は分からない内容になるからです。
とはいえ、正しい訳をして、その意味を上述のように理解しようとすると、今度はその説明を理解するためには、神との間につぎのような場面があったと、読者は心の内で想像する必要があります。
 じっさい、信仰は心の世界にあるものです。その内容を理解するためには、心の内で神を想像する必要があります。そして十戒が前提にしているのは、「あなたが」実際に神を前にして、神に約束する場面です。そういう場面を実際的に想像する必要があるのです。
まず、あなたは、神に会っているのですから、天の国に居ます。天の国に居て、そこからもう二度とあなたは遠ざけられたくない、と思い、神にそれを申し出ます。かつて人祖アダムは、禁じられた木の実を食べたために天の国を追放されました。したがってあなたも、いったんは天の国から遠ざけられて辛い思いをしました。ただ、何が原因か、それは分からないままに、今は天の国に居てあなたは神を目の前にしています。あなたは、今度は神から木の実を食べるなとは命じられていません。神からは、つぎのことを、あらためて求められます。
第一に、「あなたは、わたし以外のものを神としないこと」。第二に、「あなたは像を造ってそれを拝まないこと」。第三に、「あなたはわたしを主とするが、その名をみだりに口にしないこと」。第四に、「あなたの父と母を敬うこと」。第五に、「安息日を決めてその日を聖なる日とすること」。第六に、「あなたは殺さないこと」。第七に、「あなたは姦淫しないこと」。第八に、「あなたは盗まないこと」。第九に、「あなたは偽証しないこと」。第十に、「あなたは隣人の妻、しもべ、はしため、ろば、その他、隣人のものをむさぼらないこと」。
 これらの求めに応じることは、人間ならだれにでもできることだと、神は考えています。ですから、それがあなたにできないとき、つまり十戒を守れないとなれば、あなたは、神が作った本当の人間ではないと見なされ、天の国を追放されます。
イエスは、十戒という戒律をわたしたちが聴くとき、神から自分にこのように言われていると考えなさいと、教えているのです。このとき、人は、神を自分の前にしていることを想像していなければなりません。そしてこの想像が、心からのものであるとき、信仰が本物になるというわけです。なぜなら、この想像をするとき、少なくともそのときだけは、神を端的に自分の主人であると、あなたは認めていることになるからです。じっさい、「あなた」が目の前にしたものを、「神」ないし「主」と認めることが、神を信ずることだからです。言い換えると、十戒をあなたが守るかどうかで、神に対するあなたの信仰が、本物かどうか、神があなたに十戒を示すことによって試す、と言うのが、イエスの教えていることです。
十戒がこういうものだとすると、神は、あくまでも一人ひとりの「あなた」を相手に、十戒を示しています。したがって十戒は、ユダヤ民族の「集団がもつ信仰」を規定しているのではありません。その契約は、神とあなた一人の、一対一の契約です。そしてこの契約が守られている間だけ、あなたの信仰は、神に認められます。そのときは、神は「あなた」個人に恵みを与えてくれると約束しています。他方、十戒の約束が破られるのなら、神はあなたの信仰を認めず、あなたが自分との約束を否定したと見なし、「あなた」には、恵みをもたらしません。あなたは「神とは関係ないもの」と神は判断して、神はあなたを見放します。
イエスは、このように考えているのです。
 つまり十戒の戒律違反には、本来なら、このような神による処罰のみがあります。たとえば牢に入れる、手錠をかける、財産を処分する、その他、司法が行うような暴力的処罰は、一切ありません。したがってあなたが神の処罰を恐れるかどうかは、あなたの心の問題です。信仰を捨てれば、戒律を守る理由はありません。神はあなたにとって無ですから、恐れる理由はありません。ただそのときは、あなたは神との関係を失い(見捨てられ)、神に頼むことはできなくなります。すべての苦難を、自分の力で切り開いていく必要があります。どちらを選択するかは、個人の生き方です。だれもが他者(人間)の暴力から無関係に、自由に決められる選択です。
じっさい神を信ずるかどうかの選択は、あくまでも自分の「いのち」をどのように自覚するか、という自分個人の問題です。この問題は、同時に、自分のところに在る「いのち」に関する理解の問題です。その「いのち」は、中身は共通していますが、自分のところにある「この‐いのち」は、生まれたときから自分のところにだけ在るもので、世界に、唯一のものです。信仰をもつかどうかは、「この‐いのち」が、神と関係していると考えるかどうか、です。その「いのち」をどのようなものと判断するかは、それを認めることができる自分しかいません。その「いのち」は唯一のものです。他者のものと全く同じものではないうえに、自分のところにしかないものだからです。そのために、神を信ずるかどうかの問題は、他人に預けて他人に判断してもらうことはできません。
一方、国の法律にかかわる問題なら、それは国家公共の問題として理解されます。問題の解決策を他者に考えてもらうことができます。じっさい法律は心の外の行為に関する規定なので、あなたの心がどうであろうと、それとは無関係に、法律に依って罰が与えられる可能性があります。あなたが無罪だと主張しても、権力者は法律にもとづき、それを無視して罰を与えることができます。権力者に対して法律を盾に主張を貫くためには、専門家の協力が必要になります。あなたは法律をよく知る弁護人に問題の解決を頼むことができます。こうして地上の生活には何事にも分業体制における人間どうしの協力が必要であり、それができることが明らかです。むしろ互いに金銭を必要としているのですから、分業体制の社会とその法律は、人間どうしの協力を促しています。
以上のことは、わたしたちの周囲に起きている日常において、明らかです。したがってやはり法律とそれが実現を目指している正義は、国家秩序の分業体制を円滑に、安全に動かすためのものであって、個々人の信仰が過つことがないことを目指して定められたものではありません。そういうことも明らかです。一方は国法であり、他方は宗教の戒律です。二つは、区別しなければなりません。
 ですから仏教でも、戒律違反に対する処罰は何もありません。ただ古い時代に、懴悔(さんげ)と言われる半月ごとの儀式がありました。修行僧が自分の戒律違反を人前で告白する儀式です。人前に罪をさらすことは恥ですから、辛いことです。それゆえ、処罰と言えば、処罰です。しかしこの場合も、僧であることをやめれば済むし、僧であっても、口をつぐんでおけば済むことでした。いずれにしろ身体的強制力はないので、法律に依る処罰は、仏教の戒律にもありません。

26.二種類の正義

 しかし、見方を替えれば、国家の法律も、信仰上の約束と同じく、人間の間の約束事だと言うことができます。しかし、法律は分業体制の社会のなかで、その社会の安全を守るために、適宜、作られます。社会の中に流れるお金も監視対象です。社会の監視からはずされたお金は排除しなければなりません。お金に依って流通するものについても、監視され、誤りがあれば排除しなければなりません。
法律の目的は、社会の安全の確保です。したがって法律が求める正義は、特定の社会生活が安全なものとなるために求められる各自の「行為の正しさ」です。それゆえ、絶対的なものではなく、社会が異なれば、人に求められる正義は、当然、異なります。
たとえば、現代社会では車の事故が多発します。それによって死ぬ人も少なくありません。しかし自動車が無かった時代の戒律には、自動車のことは書かれていません。一方、十戒は「殺してはならない」と言っています。人を殺すことが、自動車に起因するかどうかは問題になりません。殺人は明確な戒律違反です。では、殺人を引き起こした車の利用は法律違反でしょうか。
十戒が車の利用は戒律に違反していると言っても、法律は車を無くすことが正義だとは言いません。なぜなら車が無ければ現代社会の経済が成り立たないからです。経済とは、いつも分業による生産と流通、消費の姿です。それによって人間の社会生活が、安全に、円滑に成り立っています。法律は、この社会の安全のための正義として明文化されているものです。ですから、法律は、個人を守ることよりも社会全体の経済を守ることを優先します。そのため、法律を作る立場の人は、たくさんの人の死があっても、車を無くす選択はしません。ただし事故が起きて経済が滞るのは避けなければなりません。ですからあくまでも経済のために、個々人が車の取り扱いに注意することを義務化する法律を、それが正義であるという理念のもとに、作ります。
 わたしたちが社会のうちにもっているものは、何事も、人が生きるためにあるものです。信仰は、人が人として、あるいは、神が作った生き物として生きるために、もつものです。戒律は信仰の規律です。しかし法律も人が安全に生きるためにある規律ですから、この点だけを言えば、戒律と法律は同じに見えます。ところが、信仰の教え、あるいは、信仰する者に与えられる戒律は、信仰する者一人ひとりが整えるべき「心の正しい状態」を表しています。じっさい法律が「人の社会集団が安全に存続する」ために、社会の構成員が「正しい行動を取る」ように規制しているのに対して、戒律は、「個人が正しく信じて自分を生きる」ための指針です。
ですから社会が安全に存続するために武力を必要とするときは、他国に脅威を与える武力の保持は、社会にとって「正義」だと言われます。言うまでもなく、戦争が始まれば抗戦することが「正義」です。また、国の名での人殺しは、一人でも「正義」であり、大量でも「正義」です。大量であれば、むしろ名誉とさえ言われます。喜劇王チャップリンも指摘したように、大量であれば、むしろ国家の名で賞賛されます。ふだんは人殺しは絶対悪だと言う人も、社会の安全を著しく損なうと考えられる人間は、国外に永遠的に排除するか、この世から永遠的に排除するために死刑にすることが「正義」だと、主張します。法律がもつその理屈は、戦時も平和時も同じです。
信仰の規律を示す戒律は、それと相反します。「殺す」ことを、わたしたちが生きている場面から「排除する」ことを、戒律はつねに要求します。人殺しは、平和時の死刑であれ、戦争時の勝利の戦いによるものであれ、絶対悪です。信仰によれば、神から与えられた「いのち」は、神から「生きる」ことを命じられています。自分であれ、他者であれ、人間が勝手に「いのちの奪取」=「死」を選択することは、神の命令に違反します。生死は神の権限だからです。人間を含め、生きとし生きるものは、「生きる」ことも「死ぬ」ことも「神の命令」(神の判断)に従わなければなりません。人間が神の僕として従順にそれに従うとき、まさに「神の正義=戒律の厳守」が、わたしたちが生きている現実の生活の場に成就します。
じっさい正しい信仰をもつこととは、神のそのとき、そのときの判断を知って、それに従うことであって、いたずらに自分の判断を実現することではありません。


 

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